晩年及び死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 00:25 UTC 版)
「ジョージ・ワシントン」の記事における「晩年及び死後」の解説
1797年3月に大統領職を辞任した後、ワシントンは解放感を抱いてマウントバーノンに帰った。その年は多くの時間を農園で過ごし、2,250平方フィート(75フィートx30フィート、200m2)の蒸留所を造った。これは新しい共和国でも最大級のものであった。中には5基の銅製蒸留器、1基のボイラー、50個の麦芽桶があり、その農園の中でも農業による収益性のない場所に造られていた。2年後には生産量が最大となり、7,500ドル相当のコーンウィスキーとライウィスキー11,000ガロン(42キロリットル)とフルーツブランディを生産した。 1798年にフランスとの戦争の脅威にさらされていたアメリカ陸軍の中将として最高司令官に再び指名された。ワシントンの任命は戦争が切迫していたフランスに対する警告であった。しかしながら、同年内に彼は急性喉頭炎に罹患したため、現役勤務することはできなかった。 1799年12月12日、ワシントンは馬に乗って、雪と後にはあられと凍えるような雨の中を数時間見回りに過ごした。その夜は濡れた衣服を着替えもせずに食卓に座った。翌朝目覚めると悪寒と熱があった。化膿性扁桃腺炎という咽喉感染症にかかったのである。これが急性の喉頭炎と肺炎に変わり容態が急変したワシントンは12月14日、自宅で67歳で死去。最期まで付き添ったのは親友の一人ジェイムズ・クレイク医師と個人的な秘書トビアス・リアだった。リアの日記にはワシントンの最後の言葉が「それはいい」だったと記した。妻のマーサはプライバシーの保護のために夫と交わした手紙を焼いたが、3通のみが残されることになった。 現代の医者はワシントンが連鎖球菌による喉の伝染病あるいは、瀉血による大量失血のショックと脱水症の合併症で死んだのではないかと考える。彼はマウントバーノンの家族墓地に埋葬された。ワシントンの死後、マウントバーノンは甥でアメリカ合衆国最高裁判所判事であるブッシュロッド・ワシントンが継いだ。 独立戦争時の同僚であり下院議員のヘンリー・ライトホース・ハリー・リーはワシントンを「戦争中の、平和のうちの、そして彼の同胞の心の中で一番の市民である」として称賛した。 ワシントンの死後、アメリカ陸軍はその名を「退役」名簿に載せた。生涯陸軍元帥の地位にあったドワイト・D・アイゼンハワー(ただし、大統領在任中は軍籍を離脱)を除き、ジョージ・ワシントンは大統領退任後に軍務に再就役した唯一の大統領である。アメリカ合衆国建国200周年となる1976年に、アメリカ議会はワシントンに軍の最高階級として、陸軍大元帥(General of the Armies of the United States)の称号を贈ることを議決し、大統領に対し1976年7月4日付での昇進を求めた。1978年にアメリカ陸軍省はワシントンを、その階級に叙している。
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