晩年・死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 15:21 UTC 版)
「マスティーノ1世・デッラ・スカラ」の記事における「晩年・死」の解説
1274年、ポー川流域のゲルフ派の都市がアンジュー公だったシチリア王カルロ1世(いわゆるシャルル・ダンジュー)の領有権を拒否したのに対し、ヴェローナはカスティーリャ王のアルフォンソ10世に忠誠を誓ったが、当時ローマ教皇だったグレゴリウス10世の意向に従い、ルドルフ・ディ・ハプスブルクを主権者として認め、ラヴェンナ総督府とスポレート公国を教皇領に譲り、シチリア王国の支配は断念している。教会との和平は、マスティーノにとって、そして特にヴェローナ内の平和のためにも必要であった。 1277年10月26日、マスティーノは、信頼していたアントニオ・ノガローラ(Antonio Nogarola)とともに、自宅近くで不当に暗殺された。ほとんどの資料では、ピゴッツォ家のイスナルド・デ・スカラメッリ(Isnardo de' Scaramelli)と、スパッリーノ家のある者(名前不明)が暗殺者であろう人物として挙げられている。他の資料では、歴史的に信頼できないものの、アルベルト1世が兄の地位を簒奪するために陰謀を企てて、夜中に兄を殺させたとされている。後者の仮説は、当然ながらアルベルトが暗殺などせずともいずれマスティーノの立ち位置を継承しただろう上に、マスティーノから広く政治的に評価を受けていたはずであるから、非現実的と思われる。実際、警告を受けたアルベルトは、自身がポデスタを務めていたマントヴァからすぐに戻り、街に到着すると、その復讐は陰謀者たちに逃げ道を与えなかった。
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