晩年・刑死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 15:41 UTC 版)
後に、殷汝耕は治水専門家としての技量を日本側から評価されることになる。1942年(民国32年)、殷は汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府に参加する形で政界に復帰した。同年2月、山西煤鉱公司董事長に任命されている。翌年3月17日、国民政府経済委員会常務委員に任命され、1944年(民国33年)1月からは、治理運河籌備処主任、治理運河工程局局長を歴任した。しかし、殷は権限の小ささに不満を抱き、6月に治水関係の職務を辞して北平に戻った。 日本降伏後の1945年(民国34年)12月、殷汝耕は漢奸として逮捕され、翌年5月、南京に護送された。殷は獄中で回顧録を著し、自分の行動が実は愛国心に基づいたものであったと主張したが、1947年(民国36年)11月8日、最高法院で死刑が確定した。処刑までの日々は、終日、読経により過ごしたとされる。12月1日、南京の刑場で銃殺に処せられたが、最期まで従容とした態度であったという。享年63。
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