晩年の著述活動
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「ウォルター・ペイター」の記事における「晩年の著述活動」の解説
1883年にブレイズノーズ・コレッジの職を辞して後は執筆活動に専念することとなる。ペイターは辞職の前年に7週間ほど初めてローマを訪れているが、この少し前より執筆に取り組んでいるアウレリウス帝時代のローマを舞台にした作品『享楽主義者マリウス、その感覚と観念』は、1885年にペイター唯一の完成された長編小説として二巻本で出版された。なお、もう一つの長編『ガストン・ド・ラトゥール、未完のロマンス』は、その題が示す通り未完のまま1896年に没後出版された。2年後の1887年には『想像の肖像』が出版されたが、これは1878年8月の『マクミランズ・マガジン』誌上に短篇「家の中の子供」が発表された際、「想像の肖像 一 家の中の子供」として書かれているように、既にペイターの頭にあったものと思われる。しかし、「家の中の子供」は『想像の肖像』には含まれず、後に『雑纂、一連の論文』へ所収される。 1885年にペイターは2人の姉妹とともに、ロンドンのケンジントンへ引越していたが、大学の学期中はブレイズノーズ・コレッジで暮らしていた。ロンドンでの邸宅では茶会や夕食会などを開き、参加者にはヴァーノン・リー、エドマンド・ゴス、アーサー・シモンズ、オスカー・ワイルド、ジョージ・ムーア、ヘンリー・ジェイムズなどの若い文学者らがいた。ペイターは研究職を辞してからも講義は行った。 1889年に『鑑賞批評集』を出版、1891年から開講された大学での講義内容をもとに、1893年に『プラトンとプラトニズム、一連の講義』を出版するが、ジャウエットは、かつて学生時代のペイターの才能を見抜きつつも『ルネサンス』出版以降、唯美主義者としてのペイター像に対して少なからず懐疑的であったが、この作品を読むや否や態度を改め最終的に称賛に転じたとも言われる。同年夏、姉妹とともにオクスフォードへ戻るが、翌年かねてより煩っていた痛風のため引きこもりがちになり、リウマチ熱を発症する。その後病床に伏すが、1894年7月30日、心臓発作により自宅で急逝した。5日後には55歳を迎えるはずだった。オクスフォードのホーリーウェル共同墓地に埋葬されている。上記以外の著作で、没後出版では1895年の『ギリシア研究、一連の論文』、翌96年の『「ガーディアン」紙の書評集』などがある。
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