晩年の絵画とエッチング(1884 - 1908年)
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「ジョヴァンニ・ファットーリ」の記事における「晩年の絵画とエッチング(1884 - 1908年)」の解説
1875年以降、彼は多くの版画を制作するようになり、1884年からは相当数のエッチングを制作している。これらはフィレンツェのPromotrice展(1886年)やボローニャの万国博覧会(1888年)で評価された。同年、これらはローマ国立近代美術館の購入するところとなる。彼のエッチングは技法、コンポジションの両面で画期的であった。1884年、20点の写真複製からなるアルバム『20 Ricordi del veto』を制作した。1888年、フィレンツェのアカデミーの素描の専任教授に昇任し、建築学科の「人物習作教授」の称号も得た。彼は野外で、小さい木製パネルにスケッチをしたが、それらのスケッチは、より大きなサイズの田園風景画を制作する際の参考となった。『マレンマにおける子馬の焼印押し』(1887年)、『マレンマの牛飼いと牛の群れ』(1894年)などの作品である。これらの大型のキャンバスには同時代の伝統的絵画に欠けていたドラマチックさと広々とした感じが表されている。ケルン(1889年入賞)、ボローニャ、ミラノ(ブレラ・アカデミー、1891年)、トリノ(アルベルティーナ美術アカデミー、1900年)、フィレンツェでの展覧会に参加。ロンドンにおけるイタリア博覧会には『柴を集める人』を出品した。パリでは1889年の万国博覧会で栄誉賞、1900年の万国博覧会では金メダルを授与されている。 1891年にはマリアンナ・ビゴッツィ・マルティネッリと2度目の結婚をする。作品の売り上げでいくらかの収入があったとは言え、暮らしは貧しかった。金銭トラブルとふくれあがる借金のため、再び個人レッスンをせざるをえなくなった。額縁を買う金にも事欠き、1896年のドレスデンの展覧会への出品をあきらめた。また、彼は挿絵を描くようになった。最初はアレッサンドロ・マンゾーニの歴史小説『婚約者』のため(1895年)、1896年には『フィアンメッタ』という風刺新聞(友人のディエゴ・マルテッリによって設立)に挿絵を描いた。1900年にはトリノのアルベルティーナ美術アカデミーの一員となる。2番目の妻は1903年に死去し、1906年にはファニー・マリネッリと結婚している。 老年期のファットーリは、イタリア統一後の社会政治秩序に対する苦い失望感を味わっていた。引き続き美術アカデミーで教鞭を執り続けていたが、新しい考えを取り入れるよりは古い伝統にすがることを好んだ。1890年代、ファットーリが最も気に入っていた生徒であるプリニオ・ノメリーニをリーダーとするグループは、新印象主義やディヴィジョニスム(分割主義、点描主義)の方向に向かっていたが、正直さと率直さで知られていたファットーリは、そうした動きを苦々しく思っていた。1891年にはポワンティリスム(点描主義)に対抗する論争に参加している。1903年頃、彼はこう書いている。「最悪の動物は何だか知っているか。それは人間だ。なぜか。自己中心的で、いんちきで、裏切り者だからだ。私は何も信じない。私にとって聖なるものなど何もない、私の妻と義理の娘以外には。私は無神論者だ。善も悪も神次第なら、そのような神が実在するはずだとは私は信じない。私は長年希望を持って生きてきたが、失望のうちに終わりそうだ」。晩年の作品、なかんずく『The Dead Horse—What Now?』には、彼の深い絶望を表すイメージがみられる。ファットーリは1908年8月30日、フィレンツェで没した。故郷リヴォルノ近くのモンテネロのマドンナ・デッレ・グラツィエ聖所記念堂のロッジャに、リヴォルノの他の著名人たちと共に眠っている。
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