晩年の研究
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22歳のとき抱いた、愚管抄の平家の動向の記事と平家物語の記事の相互の関係について、「平家の記事を慈円は参考にして愚管抄を書いたのではないか」という疑問を長年抱き続け、50歳を過ぎてからも仮定から実証へと昇華しようという思いが捨てられなかったという。読み本系の「延慶本平家物語」を底本として「愚管抄」は記述されているという結論に達した。時同じくして、学弟朝順璽によって「覚一本系が古態とする根拠の一つである、「戒文の法然説法が摂取不捨の一句を欠いていることが、平安浄土教の証である」としてきた従前の論拠に対し、①金蓮寺[要曖昧さ回避]本時宗古和讃にも摂取不捨の一句が抜けていること②いわゆる摂取不捨曼荼羅が今日一本も伝承されていないこと等から、般舟讃の一句が欠けていることが、古態となるのではなく、欠けていることこそが、弾圧下にあった法然浄土教を反映したものであるという説が発表されたが、依然赤松説に対して国文学会では批判が多く、赤松は何度も岩波書店の「文学」へ投稿することになった。しかし、後藤丹治以後、水面下にあって日の目を見なかった、読み本系古態説を再燃させた価値は高い。
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晩年の研究
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「サルバドール・エドワード・ルリア」の記事における「晩年の研究」の解説
1959年、マサチューセッツ工科大学(MIT)の微生物学部門の長となった。ここでは、ルリアは研究の中心をファージから細胞膜やバクテリオシンの研究に移した。1963年にサバティカルとしてパリのパスツール研究所で働いている時、ルリアはバクテリオシンが細胞膜の機能を破壊することを発見した。MITに戻ると、ルリアの研究室ではバクテリオシンは細胞膜に穴を開けてイオンを通し、細胞の電気化学勾配をなくすことによって細胞膜の機能を破壊していることを発見した。1972年に、ルリアはMITのガン研究センターの長となった。この研究センターで、ルリアはデビッド・ボルティモア、利根川進、フィリップ・シャープ、ロバート・ホロビッツら、後にノーベル賞を受賞する多数の科学者を育てた。 ノーベル賞の他にも、ルリアは多数の賞を受けている。1960年には全米科学アカデミーの会員に選出され、1968年から69年にかけてはアメリカ微生物学会の会長を務めた。1969年にはマックス・デルブリュックと共にコロンビア大学よりルイザ・グロス・ホロウィッツ賞を受賞。1974年には人気を呼んだ科学の啓蒙書『分子から人間へ ― 生命:この限りなき前進』で全米図書賞を受賞している。生涯を通じて、ルリアは政治的な発言も積極的に行ってきた。1957年にはライナス・ポーリングとともに核実験への抗議集会を開催した。またベトナム戦争には反対、労働組合の結成には賛成の立場を取ってきた。1970年代、ルリアは遺伝子工学の論争に巻き込まれ、ほどよい見通しに立って妥協の立場を取り、極端な禁止や全面的な自由よりはある程度の規制があるべきとした。数々の政治的な発言のせいでルリアは1969年の一時期、アメリカ国立衛生研究所の助成金対象から外されていた。 1991年2月6日、マサチューセッツ州のレキシントンで心臓発作のため没した。
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