大学教授と晩年(1949-1967)
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「野口源三郎」の記事における「大学教授と晩年(1949-1967)」の解説
1949年(昭和24年)4月15日、日本体育指導者連盟(現・日本学校体育研究連合会)の副会長となり、同年8月31日には、東京高師教授と兼任で東京教育大学の教授に就任する。翌1950年(昭和25年)11月24日には東京教育大学体育学部長兼東京体育専門学校校長に就任するも、定年のため1951年(昭和26年)3月31日にどちらも退官している。翌日4月1日より埼玉大学教育学部教授に、5月21日より順天堂大学体育学部の教授も兼任した。スポーツマンであった野口はこの頃、現役時代と同じ体重60 kgを維持しており、テニスも十分できる体力を維持しており、新たな職場での勤務に決意を新たにした。 埼玉大教授としては教育学部長を1953年(昭和28年)9月1日から務めたほか、附属小・中学校の拡張に尽力し、第3回関東甲信越大学体育大会の開催のため浦和市(現・さいたま市)から土地を無償借用し、針ヶ谷に陸上競技場を新設することに奔走した。順天堂大学では1952年(昭和27年)に陸上競技部を創部して初代部長に就任、1959年(昭和34年)4月30日には大学評議員に就任した。陸上競技団体では、1952年(昭和27年)に日本学生陸上競技連合顧問、1955年(昭和30年)6月10日に東京陸上競技協会顧問、1957年(昭和32年)1月に日本学生陸上競技連合副会長および関東学生陸上競技連盟会長に就任している。 1957年(昭和32年)9月1日、埼玉大学教授を退官し順天堂大学教授専任となる。同年、埼玉県に寄付を寄せ、この資金を元手に「野口記念体育賞」が設定された。順天堂大学教授時代にもスポーツ・陸上競技の専門家として、スポーツ人口調査委員会委員長(1958年〔昭和33年〕)、日本陸上競技連盟オリンピック東京大会競手強化本部顧問(1961年〔昭和36年〕)、東京都スポーツ振興審議会会長(1962年〔昭和37年〕)、第22回国民体育大会埼玉県実行委員会顧問(1965年〔昭和40年〕)を歴任、母校・東京高師の同窓会である茗渓会では5代目理事長を務めた。 最晩年の研究は日本の陸上競技史を学校別に明らかにしようとするもので、第1弾として取り組んだのは札幌農学校(現・北海道大学)であった。野口は札幌市に足しげく通って貴重な資料を多数収集した。1966年(昭和41年)1月、大谷武一が亡くなり、遺体と対面した際に「たった1人の体育の先輩をなくしてしまった。次は私ですね」と発言した。翌2月に前立腺疾患のため順天堂大学医学部附属順天堂医院に入院、手術は成功して5月の関東学生陸上競技対校選手権大会をスタンドで観戦、成績低迷期にあった東京教育大陸上競技部に赴いて選手を激励する演説をするまでに回復した。しかし5月下旬には軽い脳軟化症(脳梗塞)の発作が出たため順天堂医院に再入院、床に伏してからは協力者の助力を得て「我が国に於ける初期の陸上競技史に関する研究(1) 北海道大学の巻」という論文をまとめた。入院初期の頃は思考力・記憶力とも正常で、逆に見舞い客を激励していたが、末期には意識が朦朧とし、研究を気にかけて「北海道」・「奈良岡」とうわ言をつぶやいていた。 1967年(昭和42年)3月16日午前11時、脳軟化症のため逝去、78歳であった。日本のスポーツ界では1967年(昭和42年)に入ってから津島壽一、高石真五郎、唐沢俊樹と重鎮が相次いで亡くなっていた。葬儀は肌寒い雨の中自宅で行われ、順天堂大学による大学葬が青山葬儀所で3月28日に営まれた。戒名は白黎院転輪法浩日源居士。野口は生前、従四位を受位していたが、死後従三位に昇位した。
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