大学教授へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 06:39 UTC 版)
プランクは大学で次第に熱力学に傾倒していった。ベルリン大学では、この分野の大家であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツ、グスタフ・キルヒホフに師事した。ヘルムホルツの講義は準備されたものではなく、講義中にメモ帳に書かれたデータを探したり、黒板で計算を始めたりしていて、聴く側は退屈に感じた。逆にキルヒホフは念入りに講義の準備をしていて、整然とした内容であったが、無味乾燥であった。講義に満足できなかったプランクは、自分の興味ある講義録や論文を読むことで熱力学を学んだ。なかでもルドルフ・クラウジウスの論文はプランクに強い印象を与えた。 ミュンヘン大学に戻ったプランクは学位論文を書き上げ、その後の学位試験を経て1879年学位を取得した。1880年には教授資格取得論文を提出し、審査に合格して大学教授の資格を得た。 プランクの学位論文は、エネルギー保存則とエントロピーについて再検討するもので、教授資格取得論文は、学位論文で得た結論を具体的な問題に適用させる内容であった。しかしこれらの論文は、当時の物理学者にほとんど影響を与えなかった。キルヒホフからは誤りを指摘され、ヘルムホルツは論文を読もうともしなかった。プランクはクラウジウスに読んでもらおうとしたが、それも叶わなかった。さらに、すでにウィラード・ギブズがプランクと同様の研究内容を発表していることが後になって分かり、プランクは落胆した。 ともあれ教授の資格は得られたプランクであったが、教授職の空きがなく、しばらくは無給の私講師として親の元で暮らしていた。当時プランクは級友の妹で銀行家の娘のマリー・メルクと交際していたが、収入が無いなかでの結婚に踏み切れないでいた。しかし1885年、キール大学からの招聘を受け、キール大学の員外教授となった。この人事には、元々キール大学で教えていて大学内に友人のいた父親の影響もあったと推測されている。 1887年、29歳のプランクはマリー・メルクと結婚した。2人の間には長男カール、双子の長女と次女であるエンマとグレーテ、そして次男エルヴィンの2男2女をもうけた。
※この「大学教授へ」の解説は、「マックス・プランク」の解説の一部です。
「大学教授へ」を含む「マックス・プランク」の記事については、「マックス・プランク」の概要を参照ください。
- 大学教授へのページへのリンク