大学教授・病院長時代
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1927年(昭和2年)にドイツ留学から帰国する。同年9月に北海道に渡る。1928年に北海道帝国大学教授に就任。1928年7月13日に次女桂子が生まれる。その直後7月27日に内村鑑三夫妻が札幌に来る。札幌独立教会の牧会を行う。1930年(昭和5年)3月には、父の危篤の際一家で上京し、父の臨終についての詳細な記録を記した。それらは「父の臨終の記」として残されている。 また、3月28日に父内村鑑三が死去すると、内村の希望で東大医学部で偉業を達成した人物の脳の研究のため鑑三の解剖を行う。 その後1936年に東京帝国大学医学部教授(1949年まで東京都立松沢病院院長兼任、学部長も務める)となる。 東大在職中に財団法人神経研究所を設立。偉業を達成した人物の脳の研究や双生児の研究で多くの業績を残した。定年退官後は国立精神衛生研究所長などを務める。 戦争中には軍部の要請でソロモン群島に派遣され、戦地の精神医療体制についてアドバイスを与えた。また、空襲で松沢病院が焼失して、患者にも犠牲者を出す。1945年終戦の年に母静子が亡くなる。 その一方1939年から1943年までは東大野球部長、1943年六大学野球連盟理事長として戦時下の学生野球の対応に尽力する。
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