大学教授から政界へ進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 18:45 UTC 版)
「トマス・クランマー」の記事における「大学教授から政界へ進出」の解説
イングランド中部ノッティンガムシャーのジェントリの家庭に生まれる。12歳で父を亡くし貧乏ではあったが聡明で、14歳でケンブリッジ大学へ入学した。ところが21歳の頃にジョーンという町娘(酒場の女性とも)を妊娠させ結婚したことが周囲の非難を浴び、女人禁制の大学ではフェローの地位を失い、私生活でも子供の誕生と引き換えにジョーンを産褥で失ってしまい、僅か1年で結婚生活が終わった。スキャンダルが尾を引いて学士号取得も7年かかった。 それからはケンブリッジ大学教授として日々を過ごしたが、1529年、40歳の時に2人の友人スティーブン・ガーディナーとエドワード・フォックス(英語版)と出会い、2人に当時話題となっていた国王ヘンリー8世と王妃キャサリン・オブ・アラゴンの離婚問題に意見を授け、結婚が無効なのかヨーロッパ中の神学者に意見を求めてはどうかと提案、この提案が王にとって有利なためガーディナーとフォックスの引き立てで王に抜擢された。それから王の寵愛とウィルトシャー伯爵トマス・ブーリンの庇護も獲得、トーントン助祭長、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世付きの大使に任命された。派遣された大陸でプロテスタントに触れて、1532年に教会法を破りプロテスタント神学者アンドレアス・オジアンダーの妻の姪マルガレーテと再婚してまたもやスキャンダルを起こす中、同年11月に帰国した。
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