晩年・急逝
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小圓遊は亡くなる10年以上前から糖尿病を患っており、長期入院も経験。さらに、1975年(昭和50年)には栃木県宇都宮市で交通事故に遭い、足を負傷するなど災難が続いた。小圓遊が亡くなる約1か月前に亡くなった初代林家三平は、「小圓遊さん、最近痩せちゃって。医者にみせているのかねえ」と病床で小圓遊の健康状態を心配していたという。また、桂歌丸によれば15周年ハワイ公演(後述)から帰国した際、成田空港から出てきた時に花壇のところで力なく座り込んでしまうほど健康状態が悪く、この時が歌丸が目にした小圓遊の生前最後の姿となったという。 小圓遊最後の『笑点』出演は1980年(昭和55年)9月20日 に収録し、小圓遊が亡くなった7日後の10月12日に放送された15周年記念ハワイ公演(2回目)だった。出演し続けた『笑点』でも、酒浸りになっていたせいか呂律が回らなくなっており、収録時には一日中酒の匂いが消えなかったこともあった。そのため、段々と受け答えが悪くなっており、台本や編集、当時の司会者だった三波伸介のフォローで何とかのり過ごすことも多くなっていた。 三波や当時のプロデューサーからは「酒を取るか、笑点を取るか」と迫られており、スタッフや共演者の真意を理解した小圓遊は収録前夜に酒を控えるなど、酒量が少なくなっていった矢先の出来事であった。一方で、歌丸の記憶によれば小圓遊はこれに対して「酒を取る」と返したため制作側も痺れを切らしてついに番組から降板させることを決断、今日明日にも本人にその旨を通告しようかという矢先に小圓遊が倒れたと述懐している。 1980年(昭和55年)10月4日 、山形県村山市民公民館で行われた山形放送主催の「秋まつり爆笑大会」では、開演前から「気分が悪い」と訴えて二度吐血していた。主任を務めた昼の部では「蛇含草」を演じる予定だったが、マクラを語っている際に気分が悪くなり、約7分で高座を下りた。戻った楽屋のトイレで再び吐血し倒れ、16時50分、北村山公立病院へ緊急搬送される。病院へ搬送されてからも、午後5時半から始まる夜の部が気になったらしく、プロダクションの関係者には「夜の部もやりたいよ。着物を着せてくれ」「点滴を受ければ大丈夫」「着物を探してくれ」と漏らしていたが、間もなく昏睡状態に陥った。翌5日、家族も病院に駆けつけ枕元で回復を祈っていたが、19時44分、食道静脈瘤破裂により死去。43歳だった。なお死去した当日は山口百恵の引退コンサートが行われた日であり、人気落語家の死去でありながら、その報道は山口百恵の影に完全に隠れる形となってしまった。 山形での公演には林家木久蔵(現:木久扇)とバラクーダも出演しており、木久蔵は小圓遊の最期を看取っている。搬送時には既に生命が危険な状態であったため家族を呼んだが、待っている間は注射で眠らされるのを拒み、看護師達を相手に笑わせていたという。小圓遊は意識不明に陥る直前に「着物を貸してくれ」と話しており、それが最期の言葉となった。墓所は寛永寺第二霊園。戒名は「欣笑院圓覚尚道居士」。 10月19日の『笑点』で「小圓遊追悼大喜利」が行われた。小圓遊の定位置には座布団と生前着用していた水色の色紋付が置かれ、小圓遊以外のメンバー5人(桂歌丸・林家こん平・林家木久蔵(現:林家木久扇)・林家九蔵(現:三遊亭好楽)・三遊亭楽太郎(現:6代目三遊亭円楽))で大喜利を行っている。三波や歌丸も終始、目を潤ませながら大喜利を進行していた。三波が独り言のように、「馬鹿が一人で逝きやがって、私は寂しいですよ」と言ったという。そして冒頭の挨拶で歌丸が「碁敵は憎さも憎し懐かしし」と挨拶したという。また、師匠である圓遊も小圓遊の死のショックから立ち直ることが出来ず、悲しみのあまり高座から遠ざかり、小圓遊の死から4年後に死去している。 小圓遊の後任には『笑点』の若手大喜利出身の古今亭朝次(現:7代目桂才賀)が加入したが、朝次が着用した色紋付は桃色となった。これは、「人気者の小圓遊の後任」という重圧を避ける意味合いがあった。これに伴って、それまで桃色を着用していた林家九蔵(三遊亭好楽)が生前の小圓遊が着用していた水色(色合いは小圓遊時代より薄いもの)を着用することとなった。その後、水色の色紋付は好楽と入れ替わりで加入した三遊亭小遊三が現在まで着用している。
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