晩年:最後の映画出演と死去
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「青木鶴子」の記事における「晩年:最後の映画出演と死去」の解説
雪洲の帰国後、鶴子は自由が丘の家があまりにも狭く、雪洲を迎え入れる住まいとしてふさわしくないと思い、千葉県市川市の大きな借家に移住した。それからの4、5年間、一家は最も穏やかな日々を過ごした。手記によると、市川の自宅は駅から30分ほどのところにあり、どこへ出かけるにも自転車を使う必要があったため、親子で自転車に相乗りして駅まで行き、子供の自転車に乗せてもらってそっくり返っている雪洲の姿を見て、「私はなんともいえないユーモアと、そしてほんとうに日本にも平和がきたなと思った」という。1953年頃までには再び渋谷区の代々木初台にある元軍人の邸宅に移住したが、この家は雪洲が鶴子に迷惑をかけたお詫びに購入したものだった。しかし、雪洲の女性問題は絶えず、また雪夫も1954年に結婚して独立したこともあり、鶴子は時折襲ってくる寂しさを紛らわせるため、頻繁にパチンコ店へ通うようになった。 1960年、鶴子はハリウッドの映画会社から『戦場よ永遠に(英語版)』の出演依頼を受けた。この作品は第二次世界大戦中の日系人の強制収容とサイパンの戦いを題材にした物語で、鶴子の役はジェフリー・ハンター演じる主人公が孤児の少年だった時に、彼を引き取って育てた日系人の女性だった。鶴子は35年以上も映画に出演していなかったが、監督のフィル・カーソン(英語版)の妻がサイレント時代からの鶴子のファンで、「この役はツルしかできない」と強く推したことで起用が実現したという。この作品には雪洲も日本軍司令官役で出演したが、鶴子の方が重要な役であり、撮影期間も鶴子の方が長期になった。そのため、それまで長らく雪洲を撮影現場に送り出す立場にいた鶴子は、今度は自分が雪洲より先にハリウッドへ向かった。 同年3月末、鶴子は36年ぶりにハリウッドのスタジオに入った。鶴子の銀幕復帰はアメリカでも報じられ、街を歩くと鶴子の顔を覚えていたパラマウント・ピクチャーズの元守衛の老人に呼び止められたり、ユニバーサル時代の電気係と再会したりするなど、旧知の人たちとの再会で愉快な日々を過ごした。撮影は45日間行われ、鶴子にはメイクアップ、結髪師、衣装係の3人が付きっきりで世話をしてくれた。撮影が終わると、監督たちは鶴子のためにセットで送別会を開いてくれ、監督に「ぜひまた君を必要としたときにはきてくれないか」と誘われたが、鶴子は「これがいい映画であればあるほど、私の映画生活のジ・エンド・マークにしようとおもっています」と返答した。鳥海は、この作品の鶴子の演技には「アメリカで生きる日系人のリアリティ」を感じ、「排日感情が強かったころのアメリカをじかに体験しているだけに、戦時中の日系人の心のうちを巧みに表現していた」と評している。 帰国後、鶴子は『婦人倶楽部』5-7月号に手記「ある国際女優の半生 私は早川雪洲の妻」を連載した。翌1961年1月にはルースが再び雪洲相手に50万ドルを請求する父権認知訴訟を起こしたが、鶴子が1931年の裁判の時の書類を保管していたおかげで、訴訟に決着をつけることができた。その後、鶴子は腹痛を訴えて関東中央病院に入院したが、子宮の手術をしたあとに容態が急変し、10月18日の午後3時20分に急性腹膜炎のため71歳で亡くなった。告別式は10月24日に青山葬儀所で行われ、11月2日には旧友30人が参加した内輪の追悼会が行われた。戒名は早證院浄誉善教大姉で、松陰神社境内の霊園に墓が建立された。それから12年後の1973年11月に雪洲も亡くなり、鶴子と同じ墓に入った。
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