政府出仕
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王政復古、江戸開城により江戸幕府が消滅して明治になると、苗字の名乗りを許される。兆民は通訳を辞職して東京へ戻り学問を続ける。福地源一郎(桜痴)の日新社の塾頭となりフランス語を教えたといわれるが長続きせず、箕作麟祥の家塾にも入門。明治3年(1870年)には大学南校大得行生となっている。翌明治4年(1871年)、廃藩置県により土佐藩の身分制から開放され、明治政府が派遣した岩倉使節団には司法省9等出仕として採用される。このとき、兆民は大久保利通に採用を直訴したという。同年11月には横浜から出発し、アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリ、リヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。 明治7年(1874年)6月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、8月には家塾の仏蘭西学舎(のちに仏学塾)を開いた。塾では語学や思想史のほか、漢学も重視された。また、18世紀フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論』の校訂に携わっている。また民権論の教授に務めた。当時の生徒に、後に大隈重信を襲撃した来島恒喜らがいた。 明治8年(1875年)には東京外国語学校の校長となるが、徳育教育を重視する兆民は教育方針をめぐり文部省と対立したとされ、直後に辞職。元老院副議長の後藤象二郎より同院権少書記官に任命され、調査掛に配属され、調査課、調査局翻訳掛を経て、翌明治9年(1876年)には国憲取調局掛を兼ね、井上毅らとともに国憲案作成のための調査や翻訳を行う。勝海舟とも知り合い、翌年には縁談を持ちかけられるが破談。勝や薩摩閥の海江田信義、海江田を通じて島津久光とも知り合い、『策論』を建言したという。明治10年(1877年)に辞職。同年には西南戦争が起こっているが、仏学塾で学んだとも言われる宮崎八郎の薩摩軍参加を止めるために兆民が熊本へ赴いたという伝承もある。明治13年(1879年)には高知県士族の娘の鹿と結婚するが、翌年には離婚している。
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政府出仕
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明治5年(1872年)大蔵省紙幣寮に出仕し、大蔵大丞渋沢栄一が設立する第一国立銀行のため、『銀行簿記精法』編纂に関わった。1873年(明治6年)新潟県庁に転じ、県令楠本正隆の下で一等訳官・県立新潟学校教頭を務め、長岡洋学校でも教えた。 1875年(明治8年)県令正隆の転任により上京し、同郷内務大丞前島密に外遊したい旨相談すると、内務省勧業寮に招かれ、1876年(明治9年)多田元吉・石河正竜とインドアッサム地方に紅茶栽培視察の通訳として派遣された。「視察上必要な場合はどちらへ行ってもよろしい」と欧州行を許されていたものの、命令の真意に気付かず、インド各地のみを回って1877年(明治10年)6月帰国してしまった。
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政府出仕
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明治元年(1868年)3月太政官により内国事務局書記を命じられ、4月会計官駅逓司、5月駅逓司判事、次いで知事試補となるも、7月判事に戻り、9月判事頭取に就任した。明治2年(1869年)2月8日聖上御車幸御用掛となり、3月7日明治天皇に従い東京に渡った。5月19日駅逓司を辞職し、6月20日京都に帰った。 明治5年(1872年)3月博覧会事務局に出仕し、4月東京に戻り、ウィーン万国博覧会事務に携わり、明治6年(1873年)11月辞職し、京都に帰った。 明治8年(1875年)10月京都博物館御用掛、明治18年(1885年)3月京都博覧会特別品評部長を務めた。
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