政府内における大隈排斥の動きとは? わかりやすく解説

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政府内における大隈排斥の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 22:10 UTC 版)

明治十四年の政変」の記事における「政府内における大隈排斥の動き」の解説

7月30日より天皇北海道を含む地方行幸に赴き、閣員のうち有栖川宮大隈黒田大木喬任はこれに同行していた。一方で東京残った伊藤井上山縣有朋山田顕義西郷らは大隈排除向けて動き出し三条当時京都病気療養中だった右大臣岩倉具視説得開始した。また佐々木ら非薩長系の政府重臣井上毅による薩摩参議への根回し開始された。この頃佐々木高行土方久元吉井友実天皇親政目指す侍補グループ谷干城鳥尾小弥太ら非薩長系の軍人、そして金子堅太郎三好退蔵といった中堅官僚は「中正党」と呼ばれるグループ形成し払下げ反対して薩長勢力対抗しようとしていた。 この際大隈排除する理由としてあげられたのが、大隈福沢三菱佐賀土佐民権派組んで払下げ事件等反政府感情煽り政権奪取企てているというものである佐々木大隈陰謀伝えた金子堅太郎は、自分自身大隈系の官僚から陰謀存在聞いたとしている。これにより三条や非薩長系も含めた東京政府内では大隈福沢三菱結託強く信じられるようになっていった。 実際に大隈福沢三菱はゆるい連携持っていたが、共通の謀略をもっていたわけではなかった。福沢弟子である大隈官僚国会早期開催積極であったが、福沢自由民権運動自体も「無智無識愚民」と評するなど冷淡であり、国会開設時期尚早であると考えていた。また大隈らは伊藤らが大隈排斥向けて動いていることをほとんど把握していなかった。大隈東京情勢知ったのは10月3日北畠治房からの連絡よるもので、対処を取るためには遅すぎた。 10月8日までに東京政府メンバー内では、大隈罷免憲法制定9年後の国会開設、そして払下げ中止合意された。帰京した岩倉払下げ中止には否定的であり大隈罷免にも消極であったが、伊藤黒田大隈罷免払下げ中止強く迫ったことによって、大隈罷免同意し開拓使問題については明治天皇裁下を仰ぐこととなった天皇10月11日帰京すると、岩倉千住駅拝謁し大隈謀略によって払下げ問題批判受けているため、早急に御前会議開いて払下げ再考するべきであると上奏した。その後三条岩倉の二大臣伊藤黒田山縣西郷井上山田の六参議有栖川宮左大臣密談し大隈罷免について合意した。これに続いて大隈以外の大臣参議大隈罷免上奏した。明治天皇大隈排除薩長による陰謀ではないか疑ったが、薩長以外の参議大隈排除同意していたことから、大隈排除同意した同日中に伊藤西郷によって大隈はこのことを知り辞職した10月12日払下げ中止国会開設公表され国会開設の詔)、事件終息した。しかし農商務河野敏鎌や、矢野文雄小野梓といった大隈官僚大量に辞職した

※この「政府内における大隈排斥の動き」の解説は、「明治十四年の政変」の解説の一部です。
「政府内における大隈排斥の動き」を含む「明治十四年の政変」の記事については、「明治十四年の政変」の概要を参照ください。

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