政府内における大隈排斥の動き
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「明治十四年の政変」の記事における「政府内における大隈排斥の動き」の解説
7月30日より天皇は北海道を含む地方行幸に赴き、閣員のうち有栖川宮・大隈・黒田・大木喬任はこれに同行していた。一方で東京に残った伊藤・井上・山縣有朋・山田顕義・西郷らは大隈の排除に向けて動き出し、三条や当時京都で病気療養中だった右大臣岩倉具視の説得を開始した。また佐々木ら非薩長系の政府重臣、井上毅による薩摩系参議への根回しも開始された。この頃佐々木高行・土方久元・吉井友実ら天皇親政を目指す旧侍補グループや谷干城・鳥尾小弥太ら非薩長系の軍人、そして金子堅太郎や三好退蔵といった中堅官僚は「中正党」と呼ばれるグループを形成し、払下げに反対して薩長勢力に対抗しようとしていた。 この際に大隈を排除する理由としてあげられたのが、大隈が福沢・三菱・佐賀・土佐の民権派と組んで、払下げ事件等で反政府感情を煽り、政権奪取を企てているというものである。佐々木に大隈の陰謀を伝えた金子堅太郎は、自分自身が大隈系の官僚から陰謀の存在を聞いたとしている。これにより三条や非薩長系も含めた東京政府内では大隈・福沢・三菱の結託が強く信じられるようになっていった。 実際に大隈・福沢・三菱はゆるい連携を持っていたが、共通の謀略をもっていたわけではなかった。福沢の弟子である大隈系官僚は国会早期開催に積極的であったが、福沢は自由民権運動自体も「無智無識の愚民」と評するなど冷淡であり、国会開設も時期尚早であると考えていた。また大隈らは伊藤らが大隈排斥に向けて動いていることをほとんど把握していなかった。大隈が東京の情勢を知ったのは10月3日の北畠治房からの連絡によるもので、対処を取るためには遅すぎた。 10月8日までに東京政府のメンバー内では、大隈の罷免、憲法制定と9年後の国会開設、そして払下げの中止が合意された。帰京した岩倉は払下げ中止には否定的であり大隈罷免にも消極的であったが、伊藤や黒田が大隈罷免と払下げ中止を強く迫ったことによって、大隈罷免に同意し、開拓使問題については明治天皇の裁下を仰ぐこととなった。 天皇が10月11日に帰京すると、岩倉は千住駅で拝謁し、大隈の謀略によって払下げ問題が批判を受けているため、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏した。その後三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意した。これに続いて大隈以外の大臣・参議が大隈罷免を上奏した。明治天皇は大隈排除が薩長による陰謀ではないかと疑ったが、薩長以外の参議も大隈排除に同意していたことから、大隈排除に同意した。 同日中に伊藤と西郷によって大隈はこのことを知り、辞職した。10月12日に払下げの中止と国会開設が公表され(国会開設の詔)、事件は終息した。しかし農商務卿河野敏鎌や、矢野文雄・小野梓といった大隈系官僚が大量に辞職した。
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