米沢藩復権運動
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宮島は出身である米沢藩が賊軍として戊辰戦争で降伏した後も、その汚名を雪ぎ復権させることに精力を尽くした。旧米沢藩重臣であった千坂高雅の新政府出仕(のちに石川県令・岡山県令などを歴任)、および旧主・上杉斉憲の官位(従四位)復活に向けて、盛んに新政府に対して働きかけている。廃藩置県で米沢藩が消滅した後も斉憲の復権運動を進め、明治8年(1875年)4月13日には斉憲の参内と明治天皇への拝謁までこぎ着けたが、復位については却下された。宮島は幕末期以来親交のあった侍補・吉井友実(旧薩摩藩士)や侍従・山岡鉄舟などの天皇側近を通じて岩倉へも工作。ついに明治13年(1880年)5月18日、上杉斉憲が従四位に復位し、幕末以来の米沢藩の雪辱が果たされた。その後も宮島は斉憲の昇叙運動を続け、明治22年(1889年)にはついに斉憲が従三位に昇進、宮島は上杉家から謝儀として金35円を贈られた(なお、昇叙1月後に斉憲は死去)。 宮島は藩閥政府の中にあって大久保利通・吉井友実・伊地知正治ら薩摩閥と長く親交を保ち、米沢出身の後輩の出世を促した。雲井龍雄は明治3年に捕らえられて処刑されたが、米沢藩は藩閥政権時代にあっても中條政恒(島根県権令・太政官小書記官)、平田東助(農商務大臣・内務大臣・内大臣)、池田成章(大蔵省御用掛、のち両羽銀行(現在の山形銀行)初代頭取)、山下源太郎(海軍大将)らの人材を輩出している。
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