戦闘の様相
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:35 UTC 版)
「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の3つの説にまとめることができる。今川軍が警戒している正面以外を迂回した織田軍が奇襲に成功したとする「迂回攻撃説」と、今川軍が織田軍の接近を認識していても敗北したとする「正面攻撃説」、両方の要素があるとする「別動隊説」である。 「迂回攻撃説」善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。 「正面攻撃説」善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍、折からの豪雨で視界が効かないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。 「別動隊説」作家の橋場日月は、上記の両説を加味した上で新説として「正面攻撃+別働隊による背後からの奇襲」説を唱えている。江畑英郷は、2009年刊行の『桶狭間 神軍・信長の戦略と実像』(カナリア書房)で、織田軍が予め押さえていた沓掛峠方面からの別動隊に襲われた今川軍兵站部隊が本陣に潰走し、その混乱に巻き込まれて義元が討たれたとの見解を示している。岡部元信が撤退時に水野信近を討ったのは、いったん今川方につきながら裏切ったことへの報復と推測している。 乱取り状態急襲説黒田日出男は、『甲陽軍鑑』で、義元の軍が乱取りで散開して、義元自身は、現地の三河の僧侶から差し入れられた酒や食料で僧侶も参加し酒宴を始めていたところを急襲されたとあり、これを評価する説を唱えている。 ただし、『甲陽軍鑑』では周辺状況が異なり地理や開戦経緯や戦場経過も知らない伝聞による記載である。黒田説は、『甲陽軍鑑』には、鷲津・丸根砦陥落も佐々・千秋戦完勝の事実も記載がないのに、他の記述を付会させて説を組み立てていると批判されている。再評価されている『甲陽軍鑑』でも、他国の事は史料にならない部分があると反論されている。 「迂回攻撃説」は江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が多い。 「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根砦、鷲津砦を陥落させて勝利に奢って油断していたとされる。例えば、『信長公記』には「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」(今川義元は塗輿を捨てて逃げた)という記述があるが、総大将の目印となる塗輿が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲を全く予期していなかったのだという見方がされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。 これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば大久保忠教の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる。 また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長が予めよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。 しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば、信長が予め情報を収集していたという見解にも無理があることになる。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所が一定している保証はなかったはずである。何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。 この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。 すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。 一方、この説を考慮に加えて今川方の条件を考察すると、そもそも今川方は油断していたかどうかに関係なく、この戦いにおいて非常な悪条件が重なってしまったと考えられる。沓掛城から出てきたばかりの時点ならば、隊形も整っていなかったはずで、充分に準備を整えた新手に猛攻を受けたとするならば大混乱に陥り、壊走することはありうる。すなわち、桶狭間の戦いは今川軍にとっては不期遭遇戦であったと思われる。さらにこれに、戦闘前後の偶然の雨天と、地形が窪地あるいは丘陵であったために混乱すれば本隊が撤退しにくい、などという条件が重なる。つまり、信長から攻撃を受けて今川勢は混乱を来たし、そしてその混乱は一時撤退して立て直せば充分に収拾が可能だったのであるが、それを行う間もなく、運悪く今川義元本人や今川の有力家臣が討たれたということである。 以上の論点により、信長の奇襲とは地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、タイミング上の奇襲であった、あるいは偶発的に奇襲になったのではないか、という解釈になる。このように『信長公記』を全面的に依拠する論によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた成功ということになる。 また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの足軽隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。藤本正行は、当時の合戦ではよくあったことだが、単に戦場に到着した信長の前で手柄を上げるために独自の判断で抜け駆けを行ったとの説である。ちなみに、この部隊の中に若き日の前田利家もいたとの説もあるが、定かではない。
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