スターリン死後のソ連政治の動き
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「スターリン批判」の記事における「スターリン死後のソ連政治の動き」の解説
1953年3月5日にスターリンが死去すると、ソ連共産党は集団指導体制に移行し、閣僚会議議長(首相)にゲオルギー・マレンコフ、第一副首相にラヴレンチー・ベリヤ(内相)、ヴャチェスラフ・モロトフ(外相)、ニコライ・ブルガーニン(国防相)、ラーザリ・カガノーヴィチ、副首相にアナスタス・ミコヤン(商業・貿易相)、党中央委員会筆頭書記にニキータ・フルシチョフといった体制となった。新政権では、まずベリヤが脱スターリン化を推し進め、直近の粛清の取り消しや大赦令の発布、立憲主義・法治主義の強調などを行った。ベリヤは、外交面ではドイツ民主共和国(東ドイツ)やハンガリー人民共和国に対して、従来の社会主義化を修正するように働きかけた。しかし、東ベルリンでの暴動の発生によって、社会主義権力が揺らぐことを警戒したフルシチョフらは、ベリヤを国家反逆罪で逮捕し失脚させた。以後、ソ連共産党の公式発表ではベリヤの企みによってスターリンが誤った行動に導かれたとされた。 他方で、ソ連社会では下からのスターリン批判の動きも生じた。収容所の政治犯たちによる待遇改善や釈放を求める動きが起こり、ボリシェヴィキ以来の古参の党員や歴史家らのグループは、レーニン追慕を通じたスターリン批判を展開した。また、文学者ではイリヤ・エレンブルグが小説『雪どけ』を発表するなどの動きが生じた。マレンコフ首相は、軽工業の重視、西側との平和共存外交などを通じて非スターリン化を図ったが、フルシチョフ筆頭書記は重工業を重視するスターリン路線を継承することを主張し、1955年にマレンコフは首相を辞任した。とはいえ、フルシチョフもユーゴスラビア連邦人民共和国との関係正常化のなかでスターリンの責任を認める立場をとり、ミコヤンは古参党員らと結びついて大粛清の調査と処刑・除名された元党員の名誉回復を主張し、ピョートル・ポスペーロフを責任者として調査が行われることとなった(ポスペーロフ委員会:英語版)。
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