暴動の発生
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1876年(明治9年)12月18日の朝、各村の戸長は翌12月19日に租税を取り立てるため、豊原村(現在の松阪市豊原町)で開かれる戸長会へ出かけた。その留守の隙に、魚見村(現在の松阪市魚見町)の農民は櫛田川を挟んで豊原村と向かい合う早馬瀬村(現在の松阪市早馬瀬町)の河原に集合、租税取り立ての延期を申し入れた。そして魚見村以外の戸長会を構成する4村からも農民が集まり、同じ要求をし、更にほかの村からも農民が集まってきた。 当初、組頭が農民の応対をしていたが、集まった農民が増大してさばき切れず、戸長・区長・巡査も説得に当たるようになった。そして区長が農民の意見をのみ、三重県宛ての嘆願書を書いた頃には日付が変わって12月19日の早朝になっていた。一方、この時には噂を聞いた農民が櫛田川上流や西岸からも集まってきて、約1,000人の大集団になったが、説得工作に当たった巡査が農民を挑発したため、遂に集団移動を始めたのであった。
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暴動の発生
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5月13日の正午過ぎ、リマのアルフォンソ・ウガルテ通りで、ペルー人の中学生の一団が突如、日系移民の商店に対して投石を始めた。それに乗じて、近所の住民たちが乱入して掠奪をはじめた。煽動者たちは、市内でアジテーションをくりかえし、リマ全市で日本人商店に対する暴動が始まった。掠奪は、20時間余りにわたって続いた。掠奪を受けた日系移民たちは、領事館やリマ日本人学校に避難した。 後述するように、領事館は取り締まり、軍の出動を要請したが、内務省および警察はこれを黙殺した。また、リマ市内の巡査は、日本人の商店の掠奪を、見て見ぬふりをしていた。 リマに始まった暴動は、リマ近郊から他の地方、農村部にも拡大していった。
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暴動の発生
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「EB・キャリア号船内暴動事件」の記事における「暴動の発生」の解説
1989年8月13日13時40分頃、沖縄本島南南西約326キロの公海上を航行中の鉱石運搬船であるEB・キャリア(86,089トン)において、待遇の改善を求める船員の一部が士官を脅迫するという事件が発生した。同船はパナマ船籍で、大韓民国の蔚山港からオーストラリアのポートヘッドランドに向けて、空荷で回航中であった。乗組員は39名で、内訳はイギリス人士官5名のほかフィリピン人32名、トルコ人2名であったが、このうち労働時間、食事等に不満を持つフィリピン人8名が同船の機関を停止し、凶器を示して船長たちに詰め寄ってきたことから、身の危険を察知した英国人士官5名が船長室に避難し、翌朝まで立てこもったものであった。 これに対し、暴動を起こしたフィリピン人乗組員は、船長室内への侵入を試みて、ナイフ、防火斧等で船長室のドアを攻撃し、一部を破損させた。17時頃、同船から海上保安庁に対し、インマルサット衛星電話を用いて、「フィリピン人船員による船内暴動が発生したので、部隊・ヘリの援助を要請する」旨の通報があった。
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暴動の発生
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「ヴァンデミエールの反乱」の記事における「暴動の発生」の解説
1795年10月20日(ヴァンデミエール29日)に選挙が行われることに決まったが、「三分の二法」に不満を持つ王党派を中心に、その前の10月5日に暴動が発生。暴徒はテュイルリー宮殿にある国民公会を襲撃。国民公会はサン・キュロットの援助を求めたが、左派は直前に弾圧されてパリでは勢力を失っていた。そのためポール・バラスを国内軍司令官に任命してナポレオン・ボナパルトが副官になった。
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暴動の発生
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レプブリカンを主導していたのは、活動に専心した秘密結社の一団であった。これらの結社は、1830年7月にシャルル10世の政府に対し暴動を扇動したのと同じものである。中でも、人権協会(フランス語版)は最も機能した組織であり、20人ごとに軍隊のように組織され(これは、20人を超える結社を禁ずるという法令を僭脱するため)、各々に首領・副首領を頂いたものであった。 レプブリカンたちは、6月5日にラマルク将軍の民衆葬を行い、葬列はバスティーユ広場に向かう示威運動となっていた。葬列には、共和主義者として亡命しているポーランド人、イタリア人及びドイツ人らの運動家も参加していた。彼らは棺の周りに集まり、ラマルクがポーランドとイタリアの自由のために強力に支持し支援したことについての演説を行った。群衆の中から、「自由、さもなければ死を(La liberté ou la mort)」と書かれた赤旗を振る者が現れ、群集は叛徒化し、警備していた政府軍はそれに向けて発砲を始めた。弔辞のため参列していたラファイエットは落ち着くよう求めたが、混乱は止めようがなく広がっていった。 一晩で、シャトレ広場(フランス語版)、アーセナル街区(フランス語版)からフォブール=サンタントワーヌ通り(フランス語版)に至る、パリの東部から中央部にかけて暴動は拡大し、叛徒は約3000人となった。夜にはテュイルリー宮殿で、叛徒が食事で大騒ぎをするのが聞こえたほどであった。しかし、叛徒の拡大はそこで止まった、夜のうちに、パリ国民衛兵に属する20000の非常勤兵は、首都周辺の平定を担当するローバウ伯が率いる40000の正規兵により強化された。 武装勢力は、歴史的地域であるサン=マルタン街に彼らの牙城を築いた。バリケードがサン=マルタン通りとサン=ドニ通りのまわりの狭い路地に積み上げられた。6月6日の朝、叛徒の残党は、サン=マルタン通りとサン=メリ通りの交差点に包囲されていた。ルイ・フィリップは、この場所で首都を支配していることを示威することを決めた。サン=クルーからパリに戻ると、テュイルリー宮殿で閣僚と将軍に謁見し、暴動の現場に乗り込む前、国民衛兵と兵士の喝采の中で包囲することを宣言した。最後の抗争は、サン=メリ回廊でなされ、6月6日の夕刻まで続いた。政府側は73名の死者と344名の負傷者の一方で、叛徒側の犠牲者は死者93名負傷者291名を数えた。こうして暴動は完全に鎮圧された。
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