ハックニー時代 (1791–94)
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「ジョゼフ・プリーストリー」の記事における「ハックニー時代 (1791–94)」の解説
... Lo! Priestley there, patriot, and saint, and sage,Him, full of years, from his loved native landStatesmen blood-stained and priests idolatrousBy dark lies maddening the blind multitudeDrove with vain hate .... サミュエル・テイラー・コールリッジ作"Religious Musings" (1796) の一節 バーミンガムに戻ることができないプリーストリー夫妻はロンドン近郊、ミドルセックス州ハックニーのロウワー・クラプトンに住み着いた。そして、非国教徒向けの学校ハックニー新大学 (New College at Hackney) で歴史と自然哲学の一連の講義を行った。友人たちが生活再建を支援し、資金や本や実験器具を集めた。バーミンガム暴動で破壊された財産について政府に補償を求めたが、完全な補償は得られなかった。An Appeal to the Public on the Subject of the Riots in Birmingham (1791)を出版し、暴動の発生を許したバーミンガムの人々を非難し、「英国政府の原則への違反」だと主張した。 友人たちはイギリスを離れて、フランスかアメリカ合衆国に移住するよう説得したが、プリーストリーは再びユニテリアン派の教会で説教をする仕事を引き受けた。聖職者として働いたのは1793年から1794年で、千年王国が間もなく訪れるという信念から、断食説教を行っている。説教では聖書の予言と最近の歴史を比較した後、フランス革命がキリストの再臨の前触れだと結論付けた。プリーストリーは以前から千年王国を信じていたが、フランス革命後はその傾向が強くなった。若い友人への手紙に、自分は生きて再臨を見ることはできないだろうが、その友人は「生きて見ることができるだろう……私が思うにそれは20年以内に起きる」と書いている。 日常生活も徐々に難しくなっていった。トマス・ペインとプリーストリーの肖像が燃やされる事件が発生した。危険な風刺漫画も依然として出版され続けていた。プリーストリーを悪魔やガイ・フォークスと比較した手紙が全国から送りつけられた。王立協会の会員はプリーストリーから距離を置き始めた。政府への抗議に対する刑罰が重くなり、フランスでは1792年にフランス国民公会で3部門でプリーストリーが選ばれたにも関わらず、プリーストリーはアメリカ合衆国への移住を決意した。プリーストリーがイギリスを離れて5週間後、ウィリアム・ピットの政権は過激派(非国教徒)たちを扇動罪で逮捕し始め、1794年反逆裁判 (1794 Treason Trials) が起きた。
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