暴動の扇動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:18 UTC 版)
2010年、テイン・セイン政権が民政移管を発表すると、軍事政権下の多くの政治犯が釈放され、ウィラトゥも恩赦で出所した。 ウィラトゥは政治活動を再開し、またミャンマーでFacebookなどの利用が解禁されたことで、Web上でも活発に説法を行うようになった。DVD配布やYouTubeの利用など、動画配信も積極的に行っている。ウィラトゥはミャンマー国内の僧で序列7位とされ、みずからの僧院は3000人の僧を擁している。ウィラトゥは、イギリスのムスリム排撃運動イングランド防衛同盟を模範とし、ムスリム経営商店のボイコット、改宗を迫られることを理由にムスリムと結婚しないこと、そしてムスリムの「768」に対抗して「969」の数字を掲げるよう呼びかけた。また、「768」はそれぞれの桁の数字を足すと「21」になることから、「21世紀にムスリムによるミャンマー乗っ取り計画が実行される」ことを意味する数字だと主張した。イスラム教組織は、「768」の陰謀論に反論する記者会見を行った。 969運動は、公式には非暴力を表明している。しかし、以下のウィラトゥの発言にもあるように、自衛を名目とした暴力は事実上肯定している。 2012年6月、ラカイン州でムスリム男性による仏教徒女性の集団強姦殺人事件があった。ウィラトゥは説法で「優しさと愛で心を満たすことはできる。だが、狂犬の横で眠ることはできない」「野生の象と人間は一緒に住めない。追い出さなければ人は殺されてしまう」など、暗にムスリムを非難する説法を繰り返した。 仏教徒たちの矛先は、ラカイン州に多く住むロヒンギャに向けられた。ロヒンギャの出自ははっきりしないが、仏教徒などからは東インド(バングラデシュ)出身を意味する「ベンガリ(ベンガル人)」と侮蔑されており、1982年には国籍・市民権も剥奪されていた。そして宗教的にはムスリムが主流であり、イスラム教とロヒンギャへの憎悪が結びついた。 まず6月3日、強姦殺人事件の報復としてバスを襲撃し、ロヒンギャ10人が殺害された。6月8日にはロヒンギャ数千人が暴動を起こし、仏教徒が殺害された。事件はさらに大規模な暴動に発展し、公式発表によると192人、報道によると200人〜250人以上が虐殺されたが、その大半がロヒンギャ(≒ムスリム)であったとされる。さらに、10万人、あるいは25万人以上のムスリムが住処を逐われ、難民となった。2014年2月には、ミャンマー政府は海外の難民支援組織を退去させ、ロヒンギャ難民は国際的に完全に孤立した(同年7月、国境なき医者団の要求で、同団の活動再開が認められ、9月に再開した)。 こうした民族浄化暴動から、ウィラトゥはその黒幕とみられ、『Guardian』は「ビルマのビンラディン」と評した。TIME7月1日号はウィラトゥの顔を「仏教徒テロの顔」と評し、969運動支持者などから抗議を受けた。ミャンマー政府は、国内で『TIME』7月1日号を発禁処分にした。ミャンマーで民政移管後、これが初の発禁処分である。 ミャンマーは上座部仏教が主流派であり、軍事政権下からムスリムは公然と迫害されていた。969運動は民政下において、ムスリム・ロヒンギャへのさらなる迫害を促す物となった。ラカイン州の暴動では、ヒューマン・ライツ・ウォッチの聞き取り調査によると、政府は最終的には鎮圧したが、放火や殺人が行われるのを傍観していた。さらに6月12日にはムスリム地区への焼き討ち事件があり、警察や準軍組織「ロンテイン」もロヒンギャのみを実弾で攻撃した。7月12日、テイン・セイン大統領はロヒンギャの第三国か、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)が管理するキャンプへの追放が「唯一の解決策」と主張した。この主張はUNHCRに棄却されたが、969運動は9月に追放案支持の大規模集会を開いた。テイン・セイン大統領は追放は諦め、同年11月、国連の潘基文事務総長への書簡でロヒンギャへの市民権付与(回復)など社会的地位の向上に努めるよう表明した。 2013年3月20日、メティラで質店経営者のムスリムと仏教徒客の口論がきっかけで殺し合いに発展し、ムスリム82人、仏教徒4人が殺害された。警察は暴徒をほぼ放置した。また、暴徒たちがモスクを焼き払い、黒焦げの遺体を引きずり回し、なぶり物にする動画がネットで公開された。この暴動で約7千人が難民となり、その多くがムスリムだった。そして焼き討ちに遭ったムスリムの商店跡には「969」がスプレーされていた。 7月7日、インド・ブッダガヤでブッダガヤ爆弾テロ事件が発生した。同事件はイスラム主義過激派組織インディアン・ムジャーヒディーンの犯行だったが、インドの捜査当局は犯行動機をミャンマーでのムスリム迫害への報復とみた。また、捜査資料によると、インドのイスラム教過激派はアルカーイダからミャンマー国内のムスリムとネットワークを築くよう指示を受けていたという。 8月(正式には9月2日付)、国家僧伽ナヤカ委員会は、969運動を念頭に、反イスラム団体を禁止する通達を出した。969運動そのものの禁止ではないが、仏教徒女性と異教徒の結婚を制限する法案作成などは行き過ぎとした。 しかしテイン・セイン大統領は、大統領府声明で969運動を「平和の象徴」と称賛し、サン・シント宗教大臣は、「私たちは今、市場経済を実践している」「誰もそれ(ボイコット)を止めることはできない。これは、消費者に任されています」と969運動によるボイコット活動を擁護した。また、最大野党・国民民主連盟のアウンサンスーチー議長も、969運動を積極的に制止しようとはしなかった。なお、ウィラトゥはもともとアウンサンスーチー支持者だったが、アウンサンスーチーは後述する差別政策には反対したため、「もはや我々とは相容れないということだ」と述べている。 2014年3月、ミャンマー政府は国際社会の支援を受け、31年ぶりの国勢調査を実施した。当初はロヒンギャへの市民権回復を前提に、調査対象に予定していたが、仏教徒らによる大規模な国勢調査反対デモが起こり、結局従来通り国民とは認めないことになった。 7月1日、マンダレーで仏教徒による暴動が起き、ムスリム経営の喫茶店が襲撃され、仏教徒とムスリム双方1人が殺害された。ウィラトゥがFacebookに、店主の女性強姦疑惑について書き込みを行い、ミャンマー政府に「イスラム聖戦士」に対する厳しい対応を求めたのがきっかけだった。 ウィラトゥは『毎日新聞』の取材に対し、「私たちの行動は自己防衛です。仏教徒は穏やかで我慢強い。攻撃的なイスラム教徒(後にウィラトゥを取材したAlex Prestonによると、ウィラトゥは激高するとしばしばムスリムへの差別表現である「カラー」と呼んだ)から、せめて自らを守る必要があるのです」「問題を起こすのは大抵はイスラム教徒です。彼らはこの国のすべての町や村で仏教徒をレイプしています。障害者であろうが少女であろうが。しかも異教徒へのレイプを称賛し合うのです」と主張した。また、共同通信社の取材に対しては、「私への攻撃はアラブ系のネットメディアが始め、欧米メディアがなぞっている。私はビンラディンでもヒトラーでもない。この国は仏教徒が多数派の国であり続けるべきだが、他宗教との共存を否定などしていない」「確かに私はイスラム教徒を『野生の象』だと言った。野生の象から身を守らなければ、人は殺されるからだ。仏教は殺生を禁じているが、身を守るために象を殺さざるを得ない例外はある」と主張した。 9月28日、ウィラトゥは、ムスリム団体の反対にもかかわらず、スリランカの仏教過激派組織ボドゥ・バラ・セーナ(BBS、仏教力団、仏教徒軍)のグナナサラ代表と会談し、「ジハード主義者による脅威と戦う」ことで一致した。 2015年1月16日、ウィラトゥら数百人の僧が国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)国連特別報告者である李亮喜の訪緬を非難するデモを行った。国連が、ロヒンギャへの市民権付与を勧告したことへの反発が理由である。デモでは国連を「イスラムと共に立つ」と揶揄し、「"ロヒン・ライアー"(嘘つきロヒン)を蹴散らせ」「ベンガリ(ロヒンギャの蔑称)が偽名を使用するな」とロヒンギャを中傷した。 1月21日、ウィラトゥは集会で李亮喜を「肩書があるからといって尊敬されるとは思うな。我々にとってはただの売春婦」と非難した。OHCHRのザイド・フセイン高等弁務官は声明で、「性差別主義で侮辱的な言動。到底受け入れられない」と抗議した。しかしウィラトゥは悪びれず、フランス通信社の取材に「もし、私がもっと厳しい単語を見つけられれば、それを使っていただろう。それは、彼女が我が国にしたこと(ロヒンギャへの市民権付与要求)とは比べものにならない」と主張した。 5月27日、969運動参加者を含む仏教徒らは、ロヒンギャ難民の処遇に対する、国際社会の批判に反発するデモを行った。ウィラトゥは『オーストラリアン』の取材に、「ムスリムが国に深刻な脅威を与えた」「仏に献花した少女が、(ムスリムの)夫に殺された」などと述べ、「これらの人々(難民)は、イスラム諸国が迎え入れるべきである。――(すなわち)インドネシア、マレーシア、ブルネイ」と主張した。 6月27日、ウィラトゥのサイトがハッキングを受け、閲覧できなくなった。ウィラトゥは、中国の無神論者の犯行と信じていると述べた。
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