第二の波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 06:43 UTC 版)
「アルメニア系アメリカ人」の記事における「第二の波」の解説
第一次大戦前後の波に次ぐアルメニア移民の2番目の波は、1940年代末のものである。ソビエト連邦戦争捕虜に対するナチスの犯罪行為は赤軍所属のアルメニア人兵士にも及んでいたが、1948年難民救済法 (en) は、戦災者のアメリカへの移住を奨励した。そして、1944年から1952年までの間に4739人のアルメニア人がアメリカへ渡った。これを援助したのは、ジョージ・マーディキアン(英語版)による組織的なアルメニア人救援運動であった。 しかし、本格的なアルメニア移民の波の到来は、1965年移民国籍法(英語版)の制定を待たなければならない。この法の成立後、ソビエト連邦やトルコ、レバノン、イランなどの中東各国から多くのアルメニア人が、政情不安を逃れてアメリカへ渡った。1950年代のアルメニア移民の大半はソ連とトルコからの移民で、これには1955年にトルコで発生したイスタンブール・ポグロム(英語版)も影響している。 他方、1940年代のソビエト・アルメニアでは、虐殺を生き延びて本国へ帰還しながらも、社会に適応できない復員兵たちが発生していた。そして、ソビエト・アルメニアから主に西側諸国への大規模な移民の波が1956年から始まり、およそ3万人のアルメニア人が1960年から1984年までの間にアメリカへ渡った。1980年代末のペレストロイカ時代になると、さらに6万人が渡米した。最終的に、1956年から1989年までの間にソ連から出国したアルメニア人のうち80パーセントがアメリカへ渡り、その数は7万7000人と推定されている。 1975年に始まり、その後15年続いたレバノン内戦や、1979年のイラン革命もまた、中東に住むアルメニア人のアメリカへの流入の原因となった。これら中東諸国のアルメニア人コミュニティは充分に確立され結束していたが、現地住民の間に同化していたわけではなかった。レバノンとイランにおいてアルメニア人は議会にも少数民族として代表を送り、伝統的なアルメニアの文化(ロシア語版)を保持する一方で、容易に多言語を操りながら、多くの場合アルメニア本国の住人よりも豊かな暮らしを送っていた。この中東からの新たな移民たちの多くはロサンゼルスへ定着し、その地のアルメニア人コミュニティを再び活性化させた。1970年には約6万5000人のアルメニア人が南カリフォルニアに住み、1989年にはその数は約20万人になっていたと見積もられる。その一方で、1980年の国勢調査(英語版)によれば、ロサンゼルス在住のアルメニア系人の数は5万2400人で、そのうち71.9パーセントが国外生まれ。さらなる内訳は14.7パーセントがイラン、14.3パーセントがソ連、11.5パーセントがレバノン、9.7パーセントがトルコ、11.7パーセントがその他中東諸国(エジプト、イラク、パレスチナなど)の出身者となっている。
※この「第二の波」の解説は、「アルメニア系アメリカ人」の解説の一部です。
「第二の波」を含む「アルメニア系アメリカ人」の記事については、「アルメニア系アメリカ人」の概要を参照ください。
- 第二の波のページへのリンク