第二の殺人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 07:32 UTC 版)
「ジェフリー・ダーマー」の記事における「第二の殺人」の解説
1987年9月15日、保護観察期間が終わったばかりのジェフリーは、ゲイバー「クラブ219」でダイナーの見習いコックである24歳の白人青年と出会い、ホテルで一夜をともにした。ところが翌朝、目が覚めると青年は口から血を流して死んでいた。のちのジェフリーの供述ではこのとき泥酔しており、一切の記憶はなく、ショックに打ちのめされたとしている。自分が絞殺したことは間違いなかったため、事態を打開するため、クローゼットに死体を隠すと、大急ぎでスーツケースを購入、ホテルに戻って死体を詰めこむと、タクシーで祖母の家へ戻り、地下室で解体。いくつかのビニール袋に分けてゴミ収集場所に出した。この事件に関して十分な物証を得られなかった警察は告発を断念している。 1988年1月16日、「クラブ219」近くのバス停でインディアンの血を引く少年に目をつけると、ビデオのモデルのアルバイトをしないかと持ちかけて、祖母の家に連れ込んだ。そこで睡眠薬入りの飲み物を飲ませて絞殺。解体したあとは酸で肉を溶かし、骨を砕いて周辺にばらまいた。3月24日、「フェニックス」というゲイバーでヒスパニック系の青年を、やはりモデルにならないかと口説いて祖母の家に連れ込み、同様の手口で殺害している。以後、飲み物に溶かした睡眠薬で眠らせて殺害し、遺体を解体するというジェフリーのルーティンワークが確立した。ただ、このころになると、地下から漂ってくる異臭に、祖母はいいかげん耐えられなくなっていた。ライオネルに電話し、地下室を調べさせたところ、どす黒い血だまりのようなものをみつけてジェフリーを問い詰めたが、子供のときのように、動物の死骸を酸で溶かしていたと弁解するばかりだった。しかし、そろそろ一人立ちさせる頃合だと思ったライオネルは、ジェフリーに独立を促した。 1988年9月25日、ミルウォーキーの北24番街808番地のアパートに引っ越したジェフリーは、引っ越してから24時間も経たないうちに問題を起こしてしまった。翌日、ラオス人少年を自室に連れこみ、睡眠薬を飲ませた。しかし少年はなんとか逃げ出して警察に駆けこみ、ジェフリーは未成年に対する性的暴行のかどで逮捕、1週間拘置された後、保釈金を積んで仮釈放となった。ジェフリーの早期仮釈放申請について、父ライオネルは、治療プログラム終了前の息子の釈放に反対する手紙を書いたにも関わらず、ジェフリーは釈放されたのであった。 4ヶ月後の1989年1月30日、ジェフリーは少年に対する性的暴行の罪で有罪判決を受けたが、判決公判が4ヶ月後に開かれることになった。判決日を待っていた3月25日、ゲイバー通いを再開していた彼は、レストランのマネージャーを務める26歳の黒人青年と知り合った。祖母の家に連れ込むと、睡眠薬入りの飲み物、絞殺、解体、ゴミ袋に詰めるという陰惨なルーティンワークがいつものように繰り返された。祖母の家で犯行に及んだのは、警察が自分のアパートを監視していると思い込んだからである。このときジェフリーは、記念に頭蓋骨を取っておくことにした。5月23日、判事はジェフリーに1年間の刑務所外労働と5年間の保護観察処分を言い渡した。この寛大な判決により、ジェフリーは日中は勤務先で働き、夜や週末は刑務所で過ごすことになった。
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