ペレストロイカの始まり
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「エストニアの独立回復」の記事における「ペレストロイカの始まり」の解説
しかし、ミハイル・ゴルバチョフが連邦共産党書記長に就任した1985年以降、拡大するグラスノスチによって、民族主義的な主張への制限も緩まり始めた。翌1986年4月にはエストニア作家同盟(エストニア語版)の席上で、検閲・歴史の歪曲・作家の追放・国外渡航の制限についてのみならず、エストニア人とロシア人の間の緊張する民族・言語問題についても大胆な発言が起こった。6月には『エタシ(エストニア語版)』紙上で言語学者マティ・ヒント (et) が、エストニアで行われたロシア化は、帝政ロシアやナチス・ドイツが行ったような同化政策と同種のものであったと告発した。 1986年末からラトビアとリトアニアで巻き起こり、当局に開発計画の見直しを認めさせた環境保護運動の数々に影響され、1987年5月1日からはエストニアでも、燐灰石の採掘拡大反対を訴える学生デモがタリンとタルトゥで活発化した(燐戦争(エストニア語版))。これらの抗議に遭って、当局はエストニアでの開発計画を白紙撤回し、さらなる環境汚染とロシア人の流入は阻止されたように見えた。しかし実際には、その後も密かに開発が続けられていたことが後に明らかにされている。とはいえこれらの動向は、初めてバルト三国の民意が公然と当局の意向を覆した、歴史的な出来事であった。 やがてはエストニア共産党の一部にも民族意識復活の兆しが表れ、1987年4月には党タリン市委員会が、市に流入するロシア人などの取り締まりを決議した。しかし、当時の党中央委員会(エストニア語版)第一書記は、エストニア人でありながらエストニア語を一切解さずモスクワに盲従するカルル・ヴァイノ(ロシア語版)であり、党全体としては依然として改革を否定し続けていた。
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