ペレストロイカでの活躍
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「アレクサンドル・ニコラエヴィチ・ヤコヴレフ」の記事における「ペレストロイカでの活躍」の解説
1985年3月、コンスタンティン・チェルネンコ書記長の死に伴い、ゴルバチョフが書記長に就任すると、翌年の1986年ソ連共産党中央委員会書記、1987年政治局員候補として政治局入りし、同年6月に政治局員となり、エドゥアルド・シェワルナゼ外相とともにゴルバチョフのペレストロイカの車の両輪としてグラスノスチ(情報公開)で主導的役割を果たしたほか、イデオロギー面や外交面で、改革に取り組み、「ペレストロイカの設計者」、「ペレストロイカのゴッドファーザー」と呼ばれた。1988年から党機構の刷新に伴い、新設された国際問題政策委員会議長に就任した。 ヤコヴレフは、ゴルバチョフ時代の保守派(ブレジネフの流れを汲むグループ)、中間派(穏健改革派、狭義のゴルバチョフ派)急進改革派の分類では、中間派に位置したが、この中ではゴルバチョフより急進的であった。教条的な共産主義、ナショナリズムに批判的であり、国際政治の多極化、多元主義を主張した。1980年代末には、レーニン批判に踏み込み、保守派の攻撃の矢面に立たされた。ゴルバチョフにより大統領評議会メンバーとなるが、1991年に辞任する。急進的改革に傾斜するが、ソ連崩壊の最後までゴルバチョフを支え続けた。
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