ゴルバチョフ時代
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ブレジネフの死後、アンドロポフ、チェルネンコと高齢の指導者による短期政権が続いた後、1985年にゴルバチョフが書記長の座に就いた。ゴルバチョフはコスイギンのあとをうけ首相を務めていた高齢のチーホノフを解任しルイシコフを就けた。また、長年外相を務めたグロムイコを最高会議幹部会議長に祭り上げ、ここに三度トロイカ体制がスタートする。 ゴルバチョフは外相にシェワルナゼを任命し新思考外交を展開、内政的には改革開放路線であるペレストロイカ政策を推し進めた。1988年にグロムイコが辞任すると、ゴルバチョフは自ら最高会議幹部会議長に就任しトロイカ体制は終わる。しかしゴルバチョフは他のトロイカ体制を終わらせた指導者たちのように権力を強化することはできなかった。改革派と守旧派の対立の中で難しい政権運営を迫られており、ゴルバチョフの求心力は著しく低下していた。この後ゴルバチョフは新しく大統領制や最高会議を改組した人民代議員大会をスタートさせるも政権を安定させることはできなかった。1990年にルイシコフにかわって首相に就けたパブロフらが起こした1991年の8月クーデターにより、クーデターそのものは失敗に終わるものの、これをきっかけにゴルバチョフの権威は決定的に失墜、代わってクーデター鎮圧を主導し、ロシア共和国を権力基盤に政界での存在感を増していた急進改革派のエリツィンに政局の主導権が移行し、彼の脱ソ連的政策により間もなくソビエト連邦の崩壊へと突き進むこととなった。
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ゴルバチョフ時代
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1991年4月:ソ連のゴルバチョフ大統領が訪日した。日ソ共同声明において、ソ連は北方四島の名前を具体的に書き、「領土画定の問題が存在する」ことを初めて文書で認めた。 12月:ソビエト連邦が解体された。その領土の大部分はロシア連邦として独立し、以後はロシア連邦が本領土問題を引き継いだ。
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