強制移住と鎮圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/28 05:58 UTC 版)
回復領省からの命令では、「'W'入植者の再定住の主たる目的は、彼らを新たなポーランドの環境に同化させることにあり、この目的を達するためにあらゆる努力が求められる。入植者たちに「ウクライナ人」という言葉を用いてはならない。インテリゲンツィヤ分子が回復領に到着した場合は、他の者たちから分離し、'W'入植者のコミュニティから引き離した場所に入植させなければならない。」とされていた。 ヴィスワ作戦を担ったのは、ステファン・モッソー将軍が指揮する2万人ほどで構成された作戦集団であった。この人員の中には、ポーランド人民軍や国内治安部隊(pl:Korpus Bezpieczeństwa Wewnętrznego、en:Internal Security Corps)の兵士、国家警察組織ミリシャ・オビヴァテルスカ(pl:Milicja Obywatelska、en:Milicja Obywatelska)や国家保安機関の出先である各地の公安部(pl:Urząd Bezpieczeństwa)の職員などが加わっていた。作戦開始は、1947年4月28日午前4時であった。追い立てられたのは、1944年から1946年にかけて行われたポーランドからソ連(ウクライナ・ソビエト社会主義共和国やシベリア)へのウクライナ人の強制移住後も南東部各地に残留していた、14万人から15万人のウクライナ人とレムコ人であった。 強制移住の手法は、それ自体が迅速かつ乱暴なものであり、追放される者は、わずか数時間しか出発準備に与えられず、持ち出しを許される所持品も限られた上、すし詰めの貨車で移送された。移動中の食料の提供は不規則、衛生状態はお粗末なもので、移動途中の遅れも重なった。移送の過程では、かなりの暴力が振るわれた。移動中には、落命する者も出た。 ウクライナ人のインテリと見なされた、ウクライナ東方カトリック教会とウクライナ正教会の両方の聖職者たちは、いったん集合所に集められた後、ヤヴォジュノの中央労働キャンプ(pl:Centralny Obóz Pracy w Jaworznie、en:Central Labour Camp Jaworzno)と名付けられた、もともとナチス・ドイツのアウシュヴィッツ強制収容所の支所だった施設に送られた。この施設には4千人ほどが収容され、その中には800人ほどのウクライナ人とレムコ人の女性たちと、数十人の子どもたちが含まれていた。収容者の中にウクライナ民族主義者組織(OUN)の構成員は含まれていなかったが、収容者たちは過酷な尋問と暴行にさらされ、およそ200人が施設内で死亡した。当時、ウクライナ民族主義者組織の構成員は、ヴィスワ作戦組織の特設法廷や通常の軍事法廷で見せしめ裁判(en:Show trial)にかけられ、500人以上が死刑を宣告されて処刑されていた。 収容施設送りを免れた者たちは、北部領土(ワルミアやマスリア)や西部領土など、ポツダム協定に基づいて戦後ポーランドに編入された旧ドイツ東部領土、いわゆる「回復領」の広い範囲に、どの地域においても彼らが人口の10%を超えないように分散された形で、再定住することになった。ヴィスワ作戦自体は、公式には1947年7月31日をもって終了した。作戦終了時には、ポーランドとチェコスロヴァキアの国境において、作戦に功績があったとされるポーランド兵士たちの勲章授与式が行われた。実際に、最後の強制移住が、1939年以前のポレシェ県(pl:Województwo poleskie、en:Polesie Voivodeship)西部にあたる地域で行われたのは、1952年のことであった。 ヴィスワ作戦の結果、ポトカルパチェ県のプシェムィシル丘陵一帯やビエシュチャディ山地、下ベスキディ山脈(英語版)(カルパティア山脈の一部)などでは、ほとんどの住民が追放されて人口が急減した。住民の強制移住により、ポーランド領内のウクライナ蜂起軍(UPA)は、人的資源その他を断たれ、窮地に立たされた。数の上で劣勢となったウクライナ人パルチザンたちは、ポーランドの共産主義勢力に対する武力闘争やゲリラ活動を維持できなくなっていった。そうした状況にもかかわらず、UPAは、さらに数年間にわたって戦い続けた。最後の強制移住が行われた後、ポーランド領内におけるUPAの活動は終息し、残党は西ヨーロッパ、特に西ドイツや、アメリカ合衆国に逃亡した。
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