強制移住の理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 15:41 UTC 版)
以下に示すようなさまざまな理由が挙げられている。 第二次世界大戦の期間における民族ドイツ人の行為(ナチス・ドイツ占領地域からのポーランド人やチェコ人追放を含む)に対する懲罰措置。同時に民族的に等質な国民国家を建設することにより、戦争に先駆けて発生したような民族対立の芽を摘み取る。 この強制移住の目的は、民族ドイツ人の東方への伸張を阻止することである。ドイツの民族主義者は過去において常に、他国におけるドイツ系少数民族の存在をその国に対する領土要求の根拠としてきた。アドルフ・ヒトラーはこれを侵略戦争の口実に利用した。他国の領土からドイツ人を排除することは将来の潜在的な問題を排除することと考えられる。 またナチズムの東方生存圏政策に基づき、ドイツ国民である帝国ドイツ人および国外の民族ドイツ人は、ドイツ領に併合された旧ポーランド地域などに移住させる政策がとられた。この地域に居住していたポーランド人は財産を奪われ、ドイツの直轄地とされたポーランド総督府地域へ追放された。またドイツ人は被抑圧者の犠牲の上に特権的な生活を享受した。一例としてはワルシャワはポーランド総督府領にあったが、そこにおける各民族の1日当たり平均摂取カロリーはドイツ人1人あたり 2,613 kcalなのに対し、ポーランド人に与えられたのは 669 kcal、ゲットーのユダヤ人に至っては 253 kcalと推定されており、食物の秘密調達なくして生命維持は不可能であったが、発覚すれば現場で即座に銃殺された。総督府ではさらにポーランド人を家から追いたて、家族を引き裂き、子供を誘拐し、強制労働を課し、微罪を理由に処刑した。ポーランドの人口は1939年の4,280万人から1945年には3,460万人にまで激減した。370万人が故意に殺害されて230万人が迫害が原因で死亡するか行方不明になったと判明するのは後のことである。 ポツダム会談の参加国は、将来において民族間の暴力を避けるにはドイツ本国の国境外に居住する民族ドイツ人をドイツ本国に強制移住させるしかないと考えていた。ウィンストン・チャーチルは1944年に庶民院でこう述べた。「強制移住は、今まで考慮しうるもののうちでは最良の措置であり永続的なものである。常に繰り返される不幸を引き起こす他民族国家に居住する民族ドイツ人の混住状況はもはや存在しなくなる…完全な一掃が行われるのである。この移送に対して不安はない。これはむしろ現代の状況において可能なことなのである…」。このチャーチルの見解の立場をとると、強制移住はその目的を達したと考えられる。1945年に新たに設定された国境線は確固たるものであり、民族対立は殆どなくなった。しかし民族関係の安定は堅い鉄のカーテンによって説明されることでもある。なお、チャーチルは1946年の有名な「鉄のカーテン」演説でドイツ人強制移住を非難している。 ドイツ本国外、特に東ヨーロッパ諸国に組織された民族ドイツ人団体は第五列として1939年のナチス・ドイツによるチェコスロヴァキア解体やポーランド侵攻を支援した。ズデーテンではズデーテン・ドイツ人 (Sudetendeutsche)の多くがナチスの政策を積極的に支持し、支援した。ポーランドとチェコスロヴァキアでは自衛団 (Selbstschutz) その他のドイツ民族主義組織が現地のドイツ系住民によって編成され、破壊活動を行い、タンネンベルク作戦に代表されるポーランド人虐殺など様々な敵対的行為に加担した。戦争の終盤にはヴェアヴォルフ(人狼部隊)、ヤークトフェアベンデ (Jagdverbände、狩猟部隊)、ブントシュー(Bundschuh、紐靴部隊)といったドイツ系住民の準軍事部隊が連合軍占領地域でゲリラ活動を行い、ポーランド人や反ナチス的ドイツ人など多数の人々を殺害した。1945年3月23日に宣伝大臣のヨーゼフ・ゲッベルスは「ヴェアヴォルフ演説」と呼ばれた演説を行い、全てのドイツ人は死ぬまで戦えと訴えた。そのため、戦後も残留するドイツ系少数民族がナチス・ドイツの桎梏から解き放たれたばかりの新生国家にとり治安維持に対する脅威とされた。1939年当時に遡るとドイツ系ポーランド人の成人のうち10人に1人は自衛団 (Selbstschutz) の構成員であり、ドイツ系ポーランド人総数のうち25%はナチス・ドイツによって支援された何らかの反ポーランド的組織に属していて、ポーランド侵攻とその後の占領に加担した。彼らはタンネンベルク作戦、AB行動、ユダヤ人ゲットー建設などの迫害行為を始めとした様々な犯罪に加わった。 ドイツ領やドイツ支配地域がソ連軍に占領されるよりはるか前に、ソ連によってポーランド東部の約200万人のポーランド人がシベリアのグラグ(強制労働収容所)に強制移送された。それに加えて80万人とされるワルシャワ住民がドイツによって特殊な労働収容所へ送られていた。戦後はこういった人々が帰郷したが、戦争で破壊された祖国で住居を必要としていた。 ソ連は1939年のポーランド侵攻でドイツと共に分割・獲得した旧ポーランド領を自国に再編入し、その結果ポーランドは戦前の領土の43%を失うこととなった。グダニスク(ダンツィヒ)を始めとした旧ドイツ領のいくつかの都市はドイツ系少数民族と戦略的に危険な国境線を排除する目的でポーランドに割譲された。さらにポーランドには、ヴィルノ(リトアニア語名ヴィリニュス)とルヴフ(ウクライナ語名リヴィウ)を失った対価として旧ドイツ領のヴロツワフ(ドイツ語名ブレスラウ)とシュチェチン(ドイツ語名シュテッティン)が与えられた。ソ連に併合された地域の代償としてポーランドに新たに与えられた回復領についてはスターリン単独の決定でなく、イギリスとアメリカによる暗黙の了解があったものと解釈できる。 ヴァルテラント帝国大管区 (Reichsgau Wartheland) のようにポーランド侵攻後にドイツに併合され、ドイツ政府によって広範囲でいわゆる民族浄化が行われていた。そのため同地の民族ドイツ人やドイツ領に併合された後に移住してきたドイツ人の戦後の追放についてはほとんど同情されなかった。
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