ナチスとフェルトヘルンハレ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/02 16:49 UTC 版)
「フェルトヘルンハレ」の記事における「ナチスとフェルトヘルンハレ」の解説
「ミュンヘン一揆」も参照 1923年11月9日、ミュンヘン一揆で蜂起したアドルフ・ヒトラー、エーリヒ・ルーデンドルフをはじめとするドイツ闘争連盟(ドイツ語版)は、バイエルン州政府掌握に失敗し、事態を打開するため市の中心部へのデモ行進を行った。しかし行進がフェルトヘルンハレの前にさしかかった時、突然の銃声により警官が死亡した。その後警察はデモ隊の鎮圧を開始し、デモ隊と警官隊の両者に死者が出た。ヒトラーは逃亡したものの逮捕され、一揆は鎮圧された。 国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)はこの際の死者を「殉教者」として扱い、フェルトヘルンハレはナチ党の宣伝の中でシンボル的な意味を持つようになった。ナチ党の権力掌握後にはその扱いはさらに大きくなり、フェルトヘルンハレの付近には殉教者を記念する慰霊碑が建立され、常時親衛隊の儀仗兵によって警備された。市民に対してもフェルトヘルンハレ前を通過するときにはナチス式敬礼が義務づけられた。しかし敬礼を忌避するため、あえてプライジング宮殿裏手のヴィスカルディ小径を通る市民も現れた。いつしかこの道は「卑怯者の小径(ドイツ語版)」(Drückebergergasse)と呼ばれるようになった。また戦争が激化するまでは毎年ミュンヘン一揆の記念行事が盛大に行われ、ヒトラーも参加していた。1938年11月9日にはスイスの神学生モーリス・バヴォー(英語版)がヒトラーをフェルトヘルンハレ付近で狙撃しようとしたが失敗した。 またナチスのプロパガンダにより、様々な方面でフェルトヘルンハレの名前と意匠が使用された。ミュンヘン一揆デモを記念して1934年に制定された「血の勲章」(制定から1938年6月までは「1923年11月9日記念メダル」)は、裏面のデザインとしてフェルトヘルンハレを用いている。ドイツ国防軍の第60師団(ドイツ語版)はスターリングラードの戦いで壊滅し、その残存兵は装甲擲弾兵師団「フェルトヘルンハレ」に編成された。その流れを汲む第1装甲師団、第2装甲師団も「フェルトヘルンハレ」の名前を受け継いでいる。いくつかの旅団などでも用いられた。 第二次世界大戦中には空襲によって背後壁の一部が破損し、1950年から1962年にかけて修復された。戦後にはナチスの設置した記念物が除去された。
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