ナチスと戦後
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ゲッティンゲンにおけるNSDAPの選挙の成功は、ナチスによる権力掌握の直前に遡る。1933年1月30日のヒトラーのドイツ国首相指名は、ゲッティンゲンではその翌日に大規模なたいまつ行列で祝われた。これには2,000人以上の制服姿のSA、SS、ヒトラーユーゲントが参加した。ゲッティンゲンでは権力掌握も騒乱なく進行した。2月28日の「国民と国家を防衛するための緊急令」の後、ゲッティンゲン警察は共産主義者に狙いを定め、早くも3月5日には SA が妨げられることなく市庁舎にハーケンクロイツの旗を掲げられるようになっていた。SA は、1933年3月28日にユダヤ人商店のショーウィンドウをたたき壊し、ユダヤ人市民を暴力的に攻撃した。ゲッティンゲンから遠くないモーリンゲン(ノルトハイム郡)に1933年に強制収容所が設けられ、1940年からは青少年強制収容所として用いられた。 行政、経済、学問からのユダヤ系住民の系統的排除は、大学の特に数学と物理学部門に手痛い損失をもたらした。ゲッティンゲンやドイツ全体の自然科学は第二次世界大戦終結後、ゆっくりと回復するしかなかった。 これと同時に、この街の精神生活は目に見えて貧困になっていった。「非ドイツ的」と烙印を押された著者の多くの大学所蔵の書籍がドイツの学生により焼却されたナチス・ドイツの焚書からもそれが分かる。1933年5月10日の焚書はゲオルク・アウグスト大学総長フリードリヒ・ノイマンによって執行された。ゲルマン学者ゲルハルト・フィッケの講演の後、ナチス学生連盟の学生達がヴェーンデ門からアドルフ・ヒトラー広場(現在のアルバーニ広場)までたいまつ行列を行った。そこでは、レーニンの盾を頂点に置いた薪の山の前で学生会会長ハインツ・ヴォルフが「非ドイツ精神」に関する短い演説を行った。歌曲「Flamme empor」(炎よ上へ)と「ホルスト・ヴェッセルの歌」を歌った後、群衆は解散した。 マッシュ通りのシナゴーグは1933年3月の襲撃で1度目の破壊を受けていたのだが、1938年11月9日から10日の排斥運動でナチスの暴徒によって放火された。1933年以前にはユダヤ系住民が約500人住んでいたが、1938年でも220人がこの街に残っていた。彼らはほぼ例外なく SA や SS による攻撃の犠牲となった。1941年12月のNSDAPゲッティンゲン郡の管理部は、ユダヤ人の国外追放が間近に行われることをすでに全住民が知っており、その住居の斡旋を希望する申請が多く寄せられていることに、頭を悩ませていた。この活動に対する抵抗はなかった。ゲッティンゲンに住んでいた140人のユダヤ系住民は1942年に絶滅収容所に送られた。 ゲッティンゲンは第二次世界大戦の空爆を比較的軽度の損害で切り抜けた。1944年7月7日以降、この街は8回の空爆を受けたが、これは主に鉄道施設に対するものであった。破壊されたのは、動物学研究所、解剖学研究所、ビール醸造所、ライネ川に架かる鉄道橋、貨物駅、ガス工場、駅舎などであった。歴史的旧市街はほとんど無傷であった。ただし爆裂弾がマッシュ通りの下半分を破壊し、ルターシューレ(学校)、ユンケルンシェンケ(酒場)、「ライニシェ・ホーフ」(邸宅)、ユーデン通りやアンガー通りの多くの住宅が破壊された。大きな被害を受けたのは、当時はプリンツェン通りにあった大学図書館、ヴェーンデ門前のオーディトリウム、パウリーナー教会、市庁舎、ヨハニス教会であった。旧市街の外では、グローネ地区とトロイエンハーゲン地区、それにカッセルへの幹線道路、アルント通り、エミリーン通り、ヴェーンデ国道沿いの住宅が爆破された。合計約120人の死者に加え、235棟の住居が跡形もなく破壊され、数多くの家屋や公共建築が損傷した。 一方、近隣の都市、カッセル、ハノーファー、ブラウンシュヴァイクは連合国側の徹底的な総爆撃を被っていた。ゲッティンゲンは空爆を逃れた難民でいっぱいになった。特に設備の整った病院があったため、戦争の進行とともに病院都市として見なされるようになり、終戦時には3千人から4千人の負傷兵がいた。幸運なことには、この街にアメリカ軍が進軍してくる前にすべての戦闘行為が終結しており、大きな戦闘がないまま1945年4月8日に解放された。この日の砲撃では、ガイスマー通りの家屋とヴィルヘルム=ヴェーバー通り、聖パウルス教会が被害を受けた。第二次世界大戦で破壊されたゲッティンゲンの建物は全体の 2.1 % であった。 戦後、この街はイギリス管理地区に属した。イギリス軍の到着に伴ってアメリカ軍は撤退した。ゲッティンゲンは3つの管理地区の境界に位置することとなった。隣のテューリンゲンはソヴィエト管理地区、南のカッセルはアメリカの管理地区であった。その立地と、戦争をほとんど無傷で切り抜けたことから、ゲッティンゲンは越境者や難民が目指す街になった。また、ゲッティンゲン大学はドイツで最初に1945年から1946年の冬学期から(ハイデルベルク大学よりわずかに先であった)講義を再開した。
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