ナチスによるドイツ人の定義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 03:21 UTC 版)
「ドイツ人」の記事における「ナチスによるドイツ人の定義」の解説
「ナチズムと人種」も参照 ナチズムの人種論の先駆者とされるハンス・ギュンターは、1922年に著した「ドイツ民族の人種学」において、19世紀以降多く見られた人種と民族の混同を批判し、「ゲルマン人種」や「アーリア人」といった名称を否定していた。ギュンターはドイツ人が北方人種等複数のヨーロッパ人種の混血の産物であるとしながらも、ドイツ性の本質は北方人種の血によって規定されているとした。このため最も優れた北方人種の血をドイツ民族に取り入れ、保存するべきであると唱えた。ギュンターの書籍は爆発的に売れ、ナチス・ドイツ政権下でも大いに読まれた。ナチズムにおけるドイツ人の定義はこれらから大きく外れた物ではなく、北方人種の精神性を受け継ぐ「種と運命の同質性に立脚する」民族共同体として定義された。 ナチス・ドイツ時代においては民族ドイツ人(ドイツ語: Volksdeutsche)という用語が出現した。これはドイツの市民権を持つドイツ人を指す帝国ドイツ人(ドイツ語版)(ドイツ語: Reichsdeutsche)とは異なり、1937年以前にドイツとオーストリアの国外に居住していた、ドイツ系とその類縁の血を持つ人種概念であった。この概念による「民族ドイツ人」はドイツ国外に多数存在しており、ベッサラビア(現在のルーマニア・モルドバ)やヴォルィーニ(現在のウクライナ)にも定住していた。独ソ戦の最中行われた東部総合計画やポーランド総督府による東方植民政策には、こうした「民族ドイツ人」が動員され、戦後にはドイツ人追放の憂き目にあった。 全体主義の体系的研究で知られる政治学者のハンナ・アーレントは、ナチズムが最も強く志向したのは民族主義ではなく人種主義であったとしている。アーレントは人種主義は民族主義と全く主旨の異なる概念であるばかりかむしろ対立する事の多い概念だと指摘しており、実際にヒトラーの腹心として人種政策の陣頭指揮を執ったハインリヒ・ヒムラーは「大ゲルマン帝国」なるものを夢想し、ドイツ人はその中で主導的な役割を果たすものだと考えていた。これはヒムラー特有の認識ではなく親衛隊全体の認識と言った方が正しく、占領地オランダの高等弁務官を務めたザイス・インクヴァルトは「(大ゲルマン帝国は)ドイツ国民国家理念の実現ではなく、人種全体のために形成される秩序である」と発言している。
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