ドイツ国外
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 14:46 UTC 版)
P1900が1900年にスイス軍で採用された後、パラベラム・ピストルは世界各国で制式拳銃の候補となった。 アメリカでは、スイスによるP1900採用直後の1901年にパラベラム・ピストルを次期制式拳銃候補として審査したほか、1906年から1907年にかけての試験でも再び候補となり、新型拳銃弾.45ACP弾仕様のモデルが2丁のみ試作された。ただし、採用には至らなかった。 オランダでは、1904年に次期制式拳銃としてパラベラム・ピストルを選んだものの、予算の都合から採用は延期されていた。一方、オランダ領東インド(蘭印)では、別途試験の後に先立ってM.11拳銃として採用されている。本国の陸海軍部隊で旧式のリボルバーからM.11への更新が始まったのは、それからおよそ10年が過ぎた頃のことだった。調達開始の遅れのため、第一次世界大戦後もオランダにおけるパラベラム・ピストルの需要は高かったが、ヴェルサイユ条約の制限の影響でドイツ国内メーカーでの生産が行われなくなった。そのため、ドイツでは部品のみ製造し、イギリスのヴィッカースが組立を行ったものがM11として納品されるようになった。M11は第二次世界大戦を通じて使用された。 ブラジルでは、いわゆる旧共和国時代(1889年 - 1930年)にパラベラム・ピストルを採用した。当時のブラジル軍では、黒色火薬弾を用いる旧式リボルバーを旧帝国軍から引き継いで配備していた。コーヒーとゴムの輸出に依存していたブラジルの経済は、自動車の普及に伴う世界的なゴム需要の急増に伴って1900年代初頭までに大いに潤い、またいわゆる南アメリカの建艦競争を背景に、従来は優先度が低いとされていた拳銃の更新にも目が向けられるようになった。1897年にはデモンストレーションを兼ねたC93の非公式試験が行われ、この際にDWM社との接点ができた。その後、1904年から1905年にかけての試験を経て、パラベラム・ピストルが次期制式拳銃に選ばれたものの、コーヒーとゴムの市場価格低下に伴う財政悪化のため、経済が再度回復する1908年まで調達は行われず、納品は1910年になってからだった。ブラジルのパラベラム・ピストルは、1906年の改良を加えたいわゆる新型がベースとなり、4.75インチの銃身とグリップ・セーフティを備えていた。口径は7.65x21mm仕様のみで、9x19mm仕様は調達されなかった。士官用の拳銃と位置づけられ、下士官兵には旧式のリボルバーが支給された。コンテスタードの反乱(英語版)(1912年 -1916年)で初めて実戦に投入され、護憲革命(英語版)(1932年)では政府軍と革命軍の双方によって使われた。1919年の法改正で軍から地方治安組織への武器貸与が行えるようになると、各地の治安組織での配備が進んだほか、対立する無法者(カンガセイロ)が軍や警察から強奪して使用する例も増えた。パラベラム・ピストルやルガーという通称よりも、パラベロ(Parabelo)という愛称がよく知られた。40年近くに渡って当局の制式拳銃であったことから、歌や詩、散文、映画においては、「パラベロ」を権力の象徴として描写することも多い。その後、警察用拳銃としては.38Spl弾仕様リボルバー(S&W MP、コルト・オフィシャルポリス)、軍用拳銃としてはM1911で更新され、1940年代までには一部の地方警察組織で使われるのみとなっていた。1950年代にはほとんどが陸軍によって回収された後、軍余剰品としてアメリカおよびヨーロッパの市場に放出された。 そのほか、フランス、オーストリア、スペイン、カナダ、ロシア、ルクセンブルグ、オランダ、ブルガリア、ノルウェー、ポルトガル、チリなどの国が採用を検討した。
※この「ドイツ国外」の解説は、「ルガーP08」の解説の一部です。
「ドイツ国外」を含む「ルガーP08」の記事については、「ルガーP08」の概要を参照ください。
- ドイツ国外のページへのリンク