ドイツ国内務大臣
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「ヴィルヘルム・フリック」の記事における「ドイツ国内務大臣」の解説
1933年1月30日、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりアドルフ・ヒトラーが首相に任命された。フリックは内務大臣としてヒトラー内閣に入閣した。成立当初のヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相アドルフ・ヒトラー、無任所大臣ヘルマン・ゲーリング、そして内務大臣フリックの3名のみで、他の閣僚メンバーはフランツ・フォン・パーペン内閣時代からの貴族閣僚とナチ党の連立相手である国家人民党のアルフレート・フーゲンベルク、鉄兜団のフランツ・ゼルテなどによって占められていた。大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクの影響が大きく、権威主義的保守閣僚たちがナチ党閣僚三人を取り囲む構図になっていた。フリックは1943年までの10年間にわたって内務大臣を務め続けることになる。 政権初期に大きな権限を持っていたフリックはナチ党の強制的同一化政策を推し進めた。1933年3月23日には全権委任法に内務大臣として署名した。これによりヒトラー独裁体制が確立された。さらに1933年12月1日には「党と国家の統一のための法律」に署名。これによりナチ党とドイツ政府は一体化され、ナチ党以外の政党の存続と樹立は禁止された。 内務大臣としてのフリックはドイツの地方政府の自治権を奪い、中央集権体制を確立するのを急いだ。フリックは1933年3月にハンブルクで「中央政府に服従しようとしない州政府があれば軍隊を差し向ける。」と演説した。そして1933年3月9日から3月15日にかけて各州の自治権取り上げが行われた。強い抵抗を見せたハインリヒ・ヘルトのバイエルン州政府も3月9日にはフランツ・フォン・エップ率いる突撃隊・親衛隊部隊によって制圧された[要文献特定詳細情報]。 しかしプロイセン自由州だけはうまくいかなかった。プロイセン内務大臣を兼任していたゲーリングはプロイセン行政機関を自らの私的機関に仕立て上げてフリックのドイツ国内務省に吸収されるのを避けようと図ったためである。フリックは1933年11月に警察権を完全に中央政府へ移行させることを企図したが、この時もゲーリングはゲシュタポをプロイセン内務省から独立させて自分の直接指揮下の機関にするなどして逃れようとした。フリックは、ゲーリングへの対抗として、バイエルン州警察長官を務めていた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーに接近し、1933年末から1934年初頭にかけてヒムラーにプロイセン州を除く全州警察権力をヒムラーに委任した。ゲーリングは、この「フリック=ヒムラー連合」との決定的な対立は望まず、1934年3月末に行われたゲーリングとフリックの間で交渉の結果、プロイセン州行政組織はプロイセン州財務省を除いてすべてドイツ国内務省に吸収されることとなった。ゲーリングの下でプロイセン内務省警察局長をしていたクルト・ダリューゲはドイツ内務省に入省した。1934年4月20日にはヒムラーがゲーリングからゲシュタポ長官代理に任じられゲシュタポの実質的指揮権を獲得した。 フリックはヒムラーを全面的に支持していたわけではなく、その強引な捜査手法について批判もしていた。1935年1月30日にフリックがヒムラーに宛てた書簡は「バイエルン州における"保護拘禁"数は他の州と比べても異常である」と苦言を呈している。フリックはヒムラーよりクルト・ダリューゲを高く評価していた。ダリューゲをドイツ国内務省警察局長に任命していた。フリックはヒムラーを名目的な事務職にしてダリューゲに警察の実権を掌握させる構想を持っていた。しかし1936年6月9日にヒトラーはヒムラーの全ドイツ警察長官就任と閣議への出席の提案を認めた。フリックはヒトラーに抗議したが、ヒトラーは「ヒムラーを閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議に出席するだけだ」と述べてフリックを納得させた。フリックも応じるしかなくなり、1936年6月17日にヒムラーを全ドイツ警察長官に任じた。フリックの推すダリューゲはヒムラーから秩序警察長官に任命され一応厚遇されたが、ゲシュタポなど権力の源泉となる政治警察はすべてハイドリヒの保安警察にまとめられたため、ダリューゲの権力は低下した。ただし、フリックとヒムラーの両者の実際の力関係はともかくとして、形式上、国家全域の統一基準の設置が内務大臣であるフリックの権限に属することは疑いの無いところであった。 フリックは形式的な内務大臣である事が多かったとはいえ、見逃すことはできない犯罪的な法律の起草にも携わっている。ニュルンベルク法をはじめとするユダヤ人を社会から排除する法律や、1934年6月の「長いナイフの夜」での粛清を正当化する法律を起草したのはフリックの内務省であった[要文献特定詳細情報]。 1938年1月25日、ゲシュタポは内務大臣の承認を経ずに国民を保護拘禁することを認められ、これによってフリックが内務大臣として所持していたゲシュタポへの僅かな拘束力も完全に消滅した。第二次世界大戦開戦でドイツが完全に軍事国家と化してしまうとフリックの力は一段と低下した。戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日にフリックは内務大臣を解任された。後任の内務大臣に就任したのは、親衛隊全国指導者であり全ドイツ警察長官であるハインリヒ・ヒムラーであった。ただし代わりにフリックは無任所大臣に任命され、形式的な閣僚としての地位は保った。
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