ドイツ国内務大臣とは? わかりやすく解説

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ドイツ国内務大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:43 UTC 版)

ヴィルヘルム・フリック」の記事における「ドイツ国内務大臣」の解説

1933年1月30日パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領よりアドルフ・ヒトラー首相に任命された。フリック内務大臣としてヒトラー内閣入閣した成立当初ヒトラー内閣におけるナチ党員は、首相アドルフ・ヒトラー無任所大臣ヘルマン・ゲーリング、そして内務大臣フリックの3名のみで、他の閣僚メンバーフランツ・フォン・パーペン内閣時代からの貴族閣僚ナチ党連立相手である国家人民党アルフレート・フーゲンベルク鉄兜団フランツ・ゼルテなどによって占められていた。大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク影響大きく権威主義的保守閣僚たちがナチ党閣僚三人取り囲む構図になっていた。フリック1943年までの10年間にわたって内務大臣務め続けることになる。 政権初期大きな権限持っていたフリックナチ党強制的同一化政策推し進めた1933年3月23日には全権委任法内務大臣として署名した。これによりヒトラー独裁体制確立された。さらに1933年12月1日には「党と国家統一のための法律」に署名。これによりナチ党ドイツ政府一体化され、ナチ党以外の政党存続樹立禁止された。 内務大臣としてのフリックドイツ地方政府自治権奪い中央集権体制確立するのを急いだフリック1933年3月ハンブルクで「中央政府服従しようとしない州政府があれば軍隊差し向ける。」と演説した。そして1933年3月9日から3月15日にかけて各州自治権取り上げが行われた。強い抵抗見せたハインリヒ・ヘルトバイエルン州政府3月9日にはフランツ・フォン・エップ率い突撃隊親衛隊部隊によって制圧された[要文特定詳細情報]。 しかしプロイセン自由州だけはうまくいかなかった。プロイセン内務大臣兼任していたゲーリングプロイセン行政機関を自らの私的機関仕立て上げフリックドイツ国内務省に吸収されるのを避けよう図ったためである。フリック1933年11月警察権を完全に中央政府移行させることを企図したが、この時もゲーリングゲシュタポプロイセン内務省から独立させて自分直接指揮下の機関にするなどして逃れようとした。フリックは、ゲーリングへの対抗として、バイエルン州警察長官を務めていた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラー接近し1933年末から1934年初頭にかけてヒムラープロイセン州を除く全州警察権力ヒムラー委任したゲーリングは、この「フリックヒムラー連合」との決定的な対立は望まず、1934年3月末に行われたゲーリングフリックの間で交渉結果プロイセン州行政組織プロイセン州財務省除いてすべてドイツ国内務省に吸収されることとなったゲーリングの下でプロイセン内務省警察局長をしていたクルト・ダリューゲドイツ内務省入省した。1934年4月20日にはヒムラーゲーリングからゲシュタポ長官代理任じられゲシュタポ実質的指揮権獲得したフリックヒムラー全面的に支持していたわけではなく、その強引な捜査手法について批判もしていた。1935年1月30日フリックヒムラー宛てた書簡は「バイエルン州における"保護拘禁"数は他の州比べても異常である」と苦言呈している。フリックヒムラーよりクルト・ダリューゲ高く評価していた。ダリューゲドイツ国内務省警察局長に任命していた。フリックヒムラー名目的な事務職にしてダリューゲ警察実権掌握させる構想持っていた。しかし1936年6月9日ヒトラーヒムラーの全ドイツ警察長官就任閣議への出席提案認めたフリックヒトラー抗議したが、ヒトラーは「ヒムラー閣僚に任命したわけではない。彼は"官房長官"として閣議出席するだけだ」と述べてフリック納得させた。フリック応じるしかなくなり1936年6月17日ヒムラーを全ドイツ警察長官任じたフリック推すダリューゲヒムラーから秩序警察長官任命され一応厚遇されたが、ゲシュタポなど権力源泉となる政治警察はすべてハイドリヒ保安警察にまとめられたため、ダリューゲ権力低下した。ただし、フリックヒムラー両者実際力関係はともかくとして、形式上国家全域統一基準設置内務大臣であるフリック権限属することは疑いの無いところであったフリック形式的な内務大臣である事が多かったとはいえ、見逃すことはできない犯罪的な法律起草にも携わっている。ニュルンベルク法はじめとするユダヤ人社会から排除する法律や、1934年6月の「長いナイフの夜」での粛清正当化する法律起草したのはフリック内務省であった[要文特定詳細情報]。 1938年1月25日ゲシュタポ内務大臣承認経ず国民保護拘禁することを認められ、これによってフリック内務大臣として所持していたゲシュタポへの僅かな拘束力も完全に消滅した第二次世界大戦開戦ドイツが完全に軍事国家化してしまうとフリックの力は一段と低下した戦時中SS権力がますます巨大化していく中、反SS的なフリックは邪魔な存在になり、1943年8月20日フリック内務大臣解任された。後任内務大臣就任したのは、親衛隊全国指導者であり全ドイツ警察長官であるハインリヒ・ヒムラーであった。ただし代わりにフリック無任所大臣任命され形式的な閣僚として地位保った

※この「ドイツ国内務大臣」の解説は、「ヴィルヘルム・フリック」の解説の一部です。
「ドイツ国内務大臣」を含む「ヴィルヘルム・フリック」の記事については、「ヴィルヘルム・フリック」の概要を参照ください。

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