ドイツ国外での運用
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当時の多くの国の陸軍と同様、1920年代のフィンランド陸軍は、短機関銃の有用性に懐疑的で、あまり関心を示していなかった。一方、白衛軍(フィンランド語版)では、1922年からスイス製SIG M1920を調達し、m/20短機関銃の名称で配備を進めた。1932年7月までに、白衛軍は合計1,415丁のMP18を配備し、そのうち1,410丁が7.65x21mm仕様、5丁が9x19mm仕様だった。国産のm/31短機関銃採用後は更新が試みられたものの、調達が遅々として進まず、1939年9月30日の時点で、白衛軍は1,415丁のm/20を保有した一方、国産のm/26は25丁、m/31は20丁しか保有していなかった。同年11月の冬戦争勃発後は多くが白衛軍から陸軍に移管された後、スイスからの追加の購入が行われた。その後、ソ連側から大量に鹵獲した短機関銃の配備が進むにつれて、m/20は後方の民兵組織などに払い下げられていった。一線を退いた後も、1960年代に放出されるまで、相当数が予備装備として残されていた。なお、1922年にはリンデレフ工場(Lindelöf)がライセンスを購入して国産化を試みたものの、製造の遅れのため白衛軍が契約を打ち切り、またスイス製のモデルが安価に販売され始めたこともあり、失敗に終わった。1925年にようやく完成したごく少数は、地方警察などに販売された。 日本においては、スイス製のSIG M1920がまず輸入され、その後にドイツ製のMP34(S1-100)を輸入した。いずれも7.63x25mm弾仕様で、日本側で製造された着脱式の着剣装置が付属した。これらはいずれもベルクマン式機関短銃やベ式機関短銃などと呼ばれた。海軍では、1929年(昭和4年)頃からベルグマン式自動拳銃の名称で配備を進めていた。また、陸軍では、1936年(昭和11年)にMP28の採用の可否を審査していた記録が残されている。ベ式は第一次上海事変(1932年)で有用性が証明され、日本における国産短機関銃の開発に繋がった。後に設計された一〇〇式機関短銃にも、ベ式は大きな影響を与えている。 エストニアでは、MP18をコピーして細部の改良を加えたアーセナル・タリン(英語版)短機関銃が設計された。 軍閥時代の中国では、1920年代初頭からMP18が使われ始めた。当時は中国に対する世界的な武器禁輸が行われていたため、最初に流入したMP18も密輸されたものであった。中国では穴の多いものを花に例えることがあり、特徴的な放熱筒を備えるMP18は花機関銃(花機關)と通称された。同時期に密輸されたトンプソン・サブマシンガンに比べると、構造が単純で製造に必要な設備の要件も低く、また安価であった。そのため、各地の軍閥は自領内の兵工廠で独自に細部の異なるMP18のコピー製造を行った。1923年頃、上海で最初のコピーMP18が製造された。上海製MP18は二脚があり、照準器は50-600mの照準距離を50mずつ変更できるものに変更されていた。コピーMP18のほとんどは中国で普及したモーゼルC96拳銃と弾薬が共有できるように7.63x25mm弾仕様とされていたが、金陵では7.65mm弾仕様のモデルが作られていたほか、閻錫山支配下の太原兵工廠のMP18は、既にコピー生産を行っていたトンプソン・サブマシンガンと同じ.45ACP弾仕様だった。青島では弾倉を下側に移したモデルが作られた。そのほか、独自の50連発箱型弾倉を備えるモデル、100連発の弾帯で給弾を行うモデルなども存在したという。1920年代から1930年代には、川、黔、甘、青などの比較的弱小な地方軍閥でさえMP18の配備を進め、ほぼ全ての軍閥で短機関銃分隊が編成されていた。第二次直奉戦争(中国語版)中の1924年に起こった玉麟山の戦いでは、奉天派の李景林がMP18を配備した決死隊を組織し、突撃を実施した。記録にある限り、これが中国における最初の実戦投入だと言われている。日中戦争でもこれらの雑多なMP18は引き続き使われ、緒戦では短機関銃の配備が進んでいない日本軍に対する優位性の1つともなったが、戦争の激化に伴う生産能力の低下から調達および整備が困難となり、徐々にアメリカ製のトンプソン・サブマシンガンへと更新されていった。ただし、一部は第二次国共内戦の終結まで使われたという。 第一次上海事変中に撮影された日本海軍の陸戦隊員。かがんでいる兵士はベ式を手にしている m/20を構えるフィンランド兵 青島鉄工廠製MP18マガジン挿入口の拡大画像1927年の刻印がある MP18を装備した満州の警官隊。マガジンを下方に挿入する中国製造型のものと通常の横挿しのものが見られる。また長いマガジンを携行するための背負い式ポーチも写っている。
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ドイツ国外での運用
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「王立ザクセン邦有鉄道IV K型蒸気機関車」の記事における「ドイツ国外での運用」の解説
ドイツ降伏に伴い1945年5月に鹵獲されてチェコ国鉄に引渡された99 554号機は同国鉄でU 99.554号機となり、1949年には同国内で石灰石を輸送する専用鉄道に売却されて1953年まで使用され、その後1年程度は定地ボイラーとして使用された。 第一次世界大戦時に第9軍用鉄道総局に供出され、ドイツ鉄道第6中隊に配置された本形式5機は1917年2月から12月まで当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったトランシルヴァニア地方の、ルーマニア戦線に至るルートの一部となる軍用鉄道で使用された後、路線と車両はオーストリア=ハンガリー帝国軍用鉄道に譲渡された。この5機のその後の経過については諸説があるが、以下の通りであったとされている123号機:1918年にトランシルヴァニア地方を占領し、その後1920年に併合したルーマニア王国に鹵獲されてトランシルヴァニア森林鉄道の3号機となった。さらに北トランシルヴァニアがウィーン裁定によってハンガリー王国に割譲されたことに伴い、同年12月に同機はハンガリー国鉄に編入されて495.001号機となり、第二次世界大戦後には同国内のNagybátony石炭工場専用線の2号機となって1961年まで使用され、1965年に解体された。 139号機:1918年にオーストリア=ハンガリー帝国が運営するセルビア地方の760 mm軌間のZabrež - バリエボ/ムラデノバツ線で試用された後、同地方のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国鉄道(1929年にユーゴスラビア国有鉄道 に名称変更)に譲渡されて13015号機となり、1933年に90形の90-008号機に改番されて1965年までユーゴスラビア鉄道のベオグラード近郊路線で使用され、1968年に解体された。 147号機:1920年代にはソバタ周辺のルーマニア森林鉄道の5号機として使用されており、その後第二次世界大戦中にハンガリー王国内に移動されたとされているが、その後の履歴は明確ではない。 148号機:第二次世界大戦終戦の時点ではルーマニア王国内にあり、ルーマニア鉄道では機体にIV K-148の表記をした状態で使用されていたが、1968年もしくは1974年に解体されたとされている。 174号機:123号機とともにトランシルヴァニア森林鉄道の4号機として使用された後、1944年にはハンガリー国内のNagybátony石炭工場専用線の6号機となって1964年まで使用され、1965年に解体された。 同じく第一次世界大戦中、当時オーストリア=ハンガリー帝国領であったガリツィア地域では、1915年にドイツ軍により軍用鉄道が建設されて、現ウクライナのリヴィウにあった帝立王立国有鉄道レンベルク鉄道局によって運行されており、通常時は152号機、162号機を含む本形式4機が、最大で14機が使用されていたとされている。 1916-18年の間にドイツ軍によりセルビアの採石輸送軌道にIII K型数機とIV K型の150号機が提供されたが、全機がザクセンに戻されている。 第二次世界大戦後に戦争賠償としてソビエト連邦に提供された8機(99 518, 521, 522, 523, 524, 546, 558, 571号機)は現在のウクライナで使用されており、このうち旧99 558号機は1955年に解体されている。
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