ドイツ国家党と改名とは? わかりやすく解説

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ドイツ国家党と改名

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/02 01:54 UTC 版)

ドイツ民主党」の記事における「ドイツ国家党と改名」の解説

ブルジョワ中道勢力退潮深刻化する中、コッホ=ヴェーザーは早くも1928年には民主党単独での勢力回復悲観的になり、中道政党一本化、あるいは青年運動との合同考えようになった1930年9月国会選挙前に中道政党一本化機運高まった民主党党首コッホ=ヴェーザーはドイツ人民党(DVP)の党首エルンスト・ショルツ(ドイツ語版)と党を統一させる交渉重ねたが、合意達しなかった。 一方青年ドイツ騎士団ドイツ語版)との合併交渉合意達した。この青年ドイツ騎士団中世風の儀礼厳守旨とする右翼的な準軍事組織だったが、ナチズム反対運動加わっているうちにヴァイマル共和政擁護方針変化し始めていた。党首コッホは「それまで遠い存在見えたこういう種類政治団体でも、提携する方法によっては相手民主主義思想共和主義思想に導くことができる」と説明し党内からは一部反発起きたものの、同党執行部多数から了承取り付けたこれを機に民主党ドイツ国家党(Deutsche Staatspartei 略称DStP)という保守色の強い党名改名しているが、「民主」の看板を外すことには党内左派から憂慮の声もあった 党の目標として「ヴァイマル憲法基盤とし、国家シンボルをその誉とし、ドイツ人真の国民(Staats-volk)とすることを目標とする。そこでは共和国建設のために新旧世代同等資格において協力する」と定められ、「中道勢力復活」が高らかに謡われたが、1930年9月選挙では国家党は得票前回150票から130票に落とし獲得議席20議席とどまった。この冴えない選挙結果民主党系からは合併失敗だったとの批判の声起きようになった党指導部選挙戦敗北認めながらも若い血を吸収することなく民主党活動続けるのは難しいという立場変えず民主党員による政治指導青年ドイツ騎士団による組織指導自由主義者による議会指導」を訴えて国家党の存続求めた。 しかし青年ドイツ騎士団の方も民主党組織容認したい平和主義やユダヤ人多さ早くもうんざりしていた。選挙後すぐに青年ドイツ騎士団議員民主党系議員内紛起こり10月7日にはアルトゥール・マーラウン(ドイツ語版)ら青年ドイツ騎士団議員6名が「世界観合わない」として離党コッホ党分裂状態を招いた責任をとって党代表辞職し、カール・ヴィルヘルム・アウグスト・ヴェーバー(ドイツ語版)が新たな国会議員団団長となった1932年7月国会選挙では中道政党はさらに壊滅的打撃被った人民党は7議席国家党に至ってはわずか4議席を持つだけの泡沫政党落ちぶれた。1932年11月国会選挙では人民党がやや得票回復させたが、国家党は得票をさらに10%落とす始末だった。 国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチス)政権誕生した後の1933年6月22日社民党禁止され、ついで6月28日国家党も社民党との選挙協力行ったとの理由禁止され解散追い込まれた。 第二次世界大戦の後、旧ドイツ民主党勢力自由民主党(FDP)の創設加わった

※この「ドイツ国家党と改名」の解説は、「ドイツ民主党」の解説の一部です。
「ドイツ国家党と改名」を含む「ドイツ民主党」の記事については、「ドイツ民主党」の概要を参照ください。

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