ドイツ国家党と改名
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ブルジョワ中道勢力の退潮が深刻化する中、コッホ=ヴェーザーは早くも1928年には民主党単独での勢力回復に悲観的になり、中道政党の一本化、あるいは青年運動との合同を考えるようになった。1930年9月の国会選挙を前に中道政党の一本化の機運が高まった。民主党の党首コッホ=ヴェーザーはドイツ人民党(DVP)の党首エルンスト・ショルツ(ドイツ語版)と党を統一させる交渉を重ねたが、合意に達しなかった。 一方青年ドイツ騎士団(ドイツ語版)との合併交渉は合意に達した。この青年ドイツ騎士団は中世風の儀礼の厳守を旨とする右翼的な準軍事組織だったが、ナチズム反対運動に加わっているうちにヴァイマル共和政擁護の方針へ変化し始めていた。党首コッホは「それまで遠い存在に見えた、こういう種類の政治団体でも、提携する方法によっては相手を民主主義思想と共和主義思想に導くことができる」と説明し、党内からは一部反発も起きたものの、同党執行部の多数から了承を取り付けた。これを機に民主党はドイツ国家党(Deutsche Staatspartei 略称DStP)という保守色の強い党名に改名しているが、「民主」の看板を外すことには党内左派から憂慮の声もあった 党の目標として「ヴァイマル憲法を基盤とし、国家シンボルをその誉とし、ドイツ人を真の国民(Staats-volk)とすることを目標とする。そこでは共和国建設のために新旧の世代が同等の資格において協力する」と定められ、「中道勢力の復活」が高らかに謡われたが、1930年9月の選挙では国家党は得票を前回150万票から130万票に落とし、獲得議席20議席にとどまった。この冴えない選挙結果に民主党系からは合併は失敗だったとの批判の声が起きるようになった。党指導部は選挙戦の敗北を認めながらも若い血を吸収することなく民主党が活動を続けるのは難しいという立場を変えず「民主党員による政治指導、青年ドイツ騎士団による組織指導、自由主義者による議会指導」を訴えて国家党の存続を求めた。 しかし青年ドイツ騎士団の方も民主党組織の容認しがたい平和主義やユダヤ人の多さに早くもうんざりしていた。選挙後すぐに青年ドイツ騎士団系議員と民主党系議員の内紛が起こり、10月7日にはアルトゥール・マーラウン(ドイツ語版)ら青年ドイツ騎士団系議員6名が「世界観が合わない」として離党。コッホは党分裂状態を招いた責任をとって党代表を辞職し、カール・ヴィルヘルム・アウグスト・ヴェーバー(ドイツ語版)が新たな党国会議員団団長となった。 1932年7月の国会選挙では中道政党はさらに壊滅的打撃を被った。人民党は7議席、国家党に至ってはわずか4議席を持つだけの泡沫政党に落ちぶれた。1932年11月の国会選挙では人民党がやや得票を回復させたが、国家党は得票をさらに10%落とす始末だった。 国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP, ナチス)政権が誕生した後の1933年6月22日に社民党が禁止され、ついで6月28日に国家党も社民党との選挙協力を行ったとの理由で禁止されて解散に追い込まれた。 第二次世界大戦の後、旧ドイツ民主党の勢力は自由民主党(FDP)の創設に加わった。
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