ドイツ国権派
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上層ブルジョワジー、旧官僚や軍を代表する貴族など広範な層から成る『ドイツ国権派(Die deutschnationalen)』は、その政治的信念において青年ナショナリズムの激烈な突撃精神に対して否定的な態度を示していた。社会問題には他のナショナリストに比べてきわめて無関心であり、民主主義による国民的な民族国家の建設に反対する頑固な反民主主義の集団だった。国権派ナショナリストは生粋の君主主義者であり、自分たちに権力と特権を保障してくれる支配秩序の代弁者だった。それゆえ帝政時代に彼らがもっていた強大な社会的、政治的地位が共和国によって失われたときこれらを祖国の混沌と道徳的退廃との広がりと捉えていた。 「聖なる理想は革命と革命後の嵐の中で無残にもかき消され、国家生活と社会生活の道徳的基盤は失われた。 権威、王権神授説、忠誠、祖国愛、異なる身分の人々の全財産への畏敬は無価値なものとしてガラクタ置場にぶちこまれ、それにかわって新しい神々、即ち民主主義、裸体主義運動、無秩序な自然主義、友愛結婚、無制限の自由放任主義が玉座についた。これは民族を思う烔眼の士全ての認めるところである。」 ドイツ国権派の愛国心がここまで反動的となったのは、彼らが世界大戦後のワイマール共和国時代の中に昔ながらの自己をほとんどそのまま持ち込んだせいであった。実際ドイツ国民の多くが内面的にはまだ帝政期の心情を持ち続け、その結果新しい事態への適応が極めて困難だったことを考えればそれは心理的には理解できることであった。しかしそれは同時に、政治の現状に対する彼らの著しい理解力の不足を暴露したものであった。 そもそもドイツ帝国という官憲国家の現実の中で生活することによって、自立的な政治姿勢を多かれ少なかれ放棄していた上層ブルジョアジーは、1918年以後、国家を肯定しつつ心底では非政治的だったかつての態度を変更し、新秩序に対して激しい怨恨を抱くようになった。したがって、当初ははっきりと君主制の復活を志向していたドイツ人民党や、本来極めて反動的なドイツ国家人民党が、時折ワイマール共和国政府に協力したのはただ戦術的な配慮からだけであった。この協力は特に国家人民党の場合には常に日和見主義的性格を帯びていた。 こうした旧ナショナリズム系の政治文書の特徴としては、匕首伝説や戦争責任のデマ宣伝を十八番とし、そうでない場合は過去の帝政時代への追憶が支配的であった。そのため全ては1914年以前か、あるいはビスマルクの辞任以前の状態に戻されるべきと考えられた。大戦前の巨大な経済発展が産業主義と大衆社会の出現と相まって全く新しい政治的、社会的条件を作り出したという認識は国権派にはほとんどなかった。 彼らが主張する祖国愛の心情にしても、保守革命派らの新しいナショナリズムの場合のような国民感情ではなく、また彼らが国粋的感情を示す場合でもそれは国家への全国民層の結集と参与を意味するというよりは、むしろ文化、政治及び経済におけるユダヤ的要素の排斥を意味していた。国権派は階級闘争を嫌悪するが、それはプロレタリアートと協力してより良い国民共同体を建設するためではなく、プロレタリアートが階級闘争を通じて国民の間に占める国権派の政治上のヘゲモニーを揺り動かすことを恐れたからである。民主的な社会主義でさえ彼らにとっては共産主義と同様、信頼のおけないものだった。労働者の生活向上を目指す如何なる社会主義の試みにも反対し、そうした試みに潜むボルシェヴィズムへの危険性を警告していた。さらに彼らは、芸術と文学の分野で偏狭な民族主義を克服しようとする知識人らを「文化ボルシェヴィズム」と呼んで罵った。 国権派の思想は、特にその祖国愛の心情という点で個別的にどれほど尊敬に値するものであったとしても時代の新しい要請を理解し得ず認識しようとしなかったがゆえに、反動的な思想だった。国権派は敗戦の責任を銃後の敗北主義的勢力におっかぶせ、1918年のドイツ革命を戦争による疲弊と窮乏とに苦しめられた人々の諸集団が社会的向上を目指して競い合う努力の表れとして見ることができず、そこに国家の権威に対する暴動と一揆しか見なかった。壮大な過去の歴史のつぎはぎ細工からなる国権派のイデオロギーは、それが強い怨恨感情によって培養されていただけに、一層致命的な影響を共和国に対して及ぼすこととなった。国権派には、自己よりも若くしかも自己に敵対する新ナショナリストと比べて時代の新しい要求から生まれる創造的理念が欠けており、現に存在する国家をその都度無批判に肯定するというこれまでの習慣を共和制の中で維持することができなかった為、国権派は専ら怨恨と中傷を撒き散らすほかなかった。現実の克服すべき諸問題に対して思想乏しく頑迷でナショナリスティックな対決姿勢に固執する国権派は、存在するものを否定する喜びの中のみに勝利感を味わっており世界大戦からもその敗北からも何も学ばなかった。そのため、若い新ナショナリストがこうしたドイツ国権派への追随を拒否したのは当然であった。
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