コピー生産
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 19:18 UTC 版)
中国製コピー 第二次世界大戦中、中華民国はレンドリース法のもとアメリカ合衆国から各種装備を給与されており、その中にはM3およびM3A1も含まれていた。1945年に供給が終了すると、中国国内で各種装備の国産化が始まった。1947年(民国36年)、中国国民党兵工署が瀋陽の第九十兵工廠(旧奉天造兵廠)にて制式名称36式短機関銃(36式衝鋒槍)としてM3A1のコピー生産を開始した。36式はおよそ完全なM3A1のコピーだったが、バレルナットはM3と同型で、レンチを掛けるための平坦部が設けられていなかった。共産党軍が第九十兵工廠を占領するまでにおよそ10,000丁が製造された。M3およびM3A1は製造に特殊な金型や大規模なプレス加工設備を用いることを想定して設計されていたため、これらが揃わない中国国内での生産は容易ではなく、品質もアメリカ製のものに比べて劣ったと言われている。1948年(民国37年)、南京の第六十兵工廠(中国語版)にて37式短機関銃(37式衝鋒槍)の生産が始まった。これは9x19mmパラベラム弾仕様に再設計されたモデルで、弾倉はステン用弾倉をコピーしたものが使われた。マガジンアダプタはかつてOSS向けに設計されたものとほぼ同等だった。翌1949年には民国政府の台湾撤退が行われたため、37式の生産はごく少数に留まった。撤退完了後、台湾にて制式名称を39式と改めた上で再生産が行われた。国共内戦後、共産党軍に接収されたものが朝鮮戦争において中国人民志願軍や朝鮮人民軍に供与されたり、ベトナム戦争時に南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に対して供与されたと言われている。 PAM1/PAM2 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} ブエノスアイレスの国立武器博物館に展示されるPAM1(上)とPAM2(下)。いずれもM3A1とは異なる照門を備え、またPAM2にはグリップセーフティが追加されている。 アルゼンチンでコピー生産されたもの。第二次世界大戦後、アルゼンチン軍は主力火器の刷新を図り、新たな短機関銃の採用も検討されることとなった。また、軍部は火器調達の外国依存の軽減が必須と考えていたため、いずれの火器も国営造兵廠にて国産化可能なことが望ましいとした。1950年10月、評価とテストを経て、M3A1の製造権が確保された。製造は火器の量産経験が豊富なドミンゴ・マテウ兵器廠(Fábrica Militar de Armas "Domingo Matheu")が担当し、国産化されたM3A1の名称はPAM1、すなわちPistola ametralladora 1(機関拳銃1型)とされた。PAM1はM3A1とほとんど同じ特徴を備えていたが、3つの点で異なる。すなわち、照門が固定式から50mと100mを切替可能なフリップ式に改められた点、.45ACP弾ではなく9x19mmパラベラム弾を使用する点、重量が8ポンド弱から7.27ポンド程度に軽量化されている点である。製造は1954年から始まり、ドミンゴ・マテウ兵器廠に新主力小銃FN FALの製造設備の導入が始まった1961年まで続いた。総生産数は34,000丁以上と言われ、軍や法執行機関で広く用いられた。PAM1は信用性があり使い勝手がよい銃と評価されたが、一方でアメリカ軍におけるM3A1と同様の欠陥も指摘された。M3A1の安全装置は排莢口の蓋のみだったので、弾倉を装填し、排莢口が開放された状態で銃を落下させるなどすると、慣性でボルトが前進し、暴発が起こる危険性があった。これを防止するため、マガジンウェルの後ろ側に簡素なグリップセーフティを設ける改良が提案され、これを組み込んだ改良型として、1963年からPAM2の製造が始まった。しかし、当時ドミンゴ・マテウ兵器廠はシステマコルト M1927(スペイン語版)拳銃とFAL小銃の生産に注力し、短機関銃の重要性も10年前よりは低下していた。そのため、生産が終了する1972年までに新造されたPAM2は1,100丁程度に留まった。一方、以前に製造されたPAM1のうち、16,500丁程度がグリップセーフティを組み込まれ、PAM2へと改修された。1974年、新型短機関銃FMK-3(英語版)の製造がドミンゴ・マテウ兵器廠にて開始されたものの、PAM1およびPAM2は1980年代まで引き続き使用された。1982年のフォークランド紛争の時点でもアルゼンチン兵による使用が確認されている。
※この「コピー生産」の解説は、「M3サブマシンガン」の解説の一部です。
「コピー生産」を含む「M3サブマシンガン」の記事については、「M3サブマシンガン」の概要を参照ください。
- コピー生産のページへのリンク