東部総合計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/17 00:14 UTC 版)
東部総合計画(とうぶそうごうけいかく、ドイツ語: Generalplan Ost)とは、ナチス・ドイツが策定した、ポーランド侵攻や独ソ戦で占領したポーランド及び東部占領地域(東部)の再編計画案。ドイツ人の植民によるゲルマン化を達成するために、スラブ人・ポーランド人等の追放を前提としていた。
策定までの経緯
ドイツがウクライナ等の東ヨーロッパを獲得してドイツ国の版図とする、いわゆる「東方生存圏」の獲得はナチズムにとって重要な問題であった。1939年9月のポーランド侵攻とその勝利は、ドイツにとって東方生存圏獲得を現実のものとした。10月7日にドイツ民族性強化国家委員に任じられた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、親衛隊にドイツ民族性強化国家委員本部(略称RKFまたはRKFDV)を設置し、東部における人種政策の監督と実行に当たることとなった。
当時ポーランドの統治にあたっていたのはハンス・フランクを総督とするポーランド総督府であったが、経済面においてはヘルマン・ゲーリングを長官とする四カ年計画庁によって設立された東部信託公社(de:Haupttreuhandstelle Ost)が大きな力を持っていた。東部信託公社の官僚達はポーランド総督府領を生産的な「帝国の隣国」として再建しようと考え、ユダヤ人の資産収奪や、ポーランド人・ユダヤ人を強制労働に動員しようと考えていた[1]。しかしアドルフ・ヒトラーは当初からポーランドを「廃墟と労働奴隷の居留地」以上にする考えはなかった。ヒトラーの意図を汲んだ総督府、親衛隊はユダヤ人問題などをめぐって四カ年計画庁と激しい対立を繰り広げたが、ヒトラー自身はこの権力闘争をほとんど放置した[2]。
1940年12月、ヒトラーは対ソ戦を決断し、作戦計画策定を命令した。しかしこの頃にはイギリスによる海上封鎖の影響でドイツの資源・食糧事情は悪化し始めていた。1941年にはユーゴスラビア侵攻やバルカン戦線 (第二次世界大戦)で東南ヨーロッパに侵攻し、独ソ戦の開始が遅れることになったが、この侵攻は資源不足の緩和が目的のひとつとなっているなど[3]、国防軍や4カ年計画庁等でも食糧や兵站問題が喫緊の課題となっていた。
この状況下で、ヒムラーはバルバロッサ作戦発動の前日である1941年6月21日に、ドイツ民族性強化国家委員本部計画部に独ソ戦後の総合計画「東部総合計画」の策定を命令した[4]。責任者ベルリン大学教授コンラート・マイヤー(de:Konrad Meyer)はすでに研究を進めており、3週間後に最初の計画を提出した[4]。さらに1942年7月にマイヤーは改訂版の計画を提出している。最初の計画案は現存していないが、東部占領地域省のエアハルト・ヴェッツェル(de:Erhard Wetzel)が鑑定した報告書が残されており、計画の概要が記されている。
計画の概要
追放
占領地域にドイツ人が入植するためには、先住者であるロシア人を始めとするスラブ人を追放・消滅させることが前提であった。総合計画ではポーランドとロシアがその対象であり、3千万から5千万の移住が必要であると目論んでいた。
しかしこの移住には、単にロシア人を移送することだけではなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅、独ソ戦によるロシア人戦死者200万人、そして餓死者の発生を前提としていた[5]。すでに四カ年計画庁と食糧次官ヘルベルト・バッケによって、包囲下に置いた地域から食糧を収奪することで、数百万人のロシア人・スラブ人が餓死するという計画が立案されていた(飢餓計画))[6]。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込んでいた[6]が、総合計画による移住計画もこれを前提としたものであった。
改訂版計画では移住人数は大きく減少しているが、これは労働力としてロシア人・ポーランド人を強制労働させる需要が生まれたためである[5]。
民族 | 移住対象の割合 |
---|---|
ポーランド人 | 80-85% |
ロシア人 | 50-60%は物理的に排除(恣意的殺害など)。15%はシベリアに移住。 |
ベラルーシ人 | 75% |
ウクライナ人 | 65% |
リトアニア人 | 85% |
ラトビア人 | 50% |
エストニア人 | 50% |
チェコ人 | 50% |
ラトガリア人 | 100% |
植民
空白地となった東部には、ドイツ人の移住が行われることになっていた。改訂版計画では25年間に490万人の移住が必要であると考えられていたが、ドイツ系移住者をこれだけ捜すことは困難であった[5]。そのためリトアニア人やラトビア人のうち人種的価値が高いと見られた者を中層階級に位置づけ、さらに現地住民を下層階級に位置づけることで労働力を軽減しようとした。ゲッツ・アリー・スザンネ・ハイムの共著『絶滅政策の立案者たち―アウシュヴィッツとドイツのヨーロッパ新秩序計画』ではこれを「今や『ドイツ人』は指導層に予定されたが、『残存する異民族住民』は『より低い社会階層』に配置されねばならなかった。」と評し、その例として東部総合計画をめぐる会議参加者の発言を引用している[9]。その発言では東部の将来像をスパルタの社会構造になぞらえ、ドイツ人を自由民であるスパルタ人、リトアニア・ラトビア人を半自由民であるペリオイコイ[10]、現地に残留したロシア人は奴隷であるヘイロタイに位置づけられるべきであるというものであった[9]。
予算
計画のためにかかる費用は、今後25年間に650億ライヒスマルクであると見積もられた[9]。しかしドイツ政府の支出は最小限に押さえられるべきであって、ユダヤ人・ロシア人からの略奪資産や強制労働によってまかなわれるべきであるとされた[9]。
計画の実行
ドイツ本国併合地域以外ではこれらの計画は戦局の悪化によってほとんど実行に移されなかったが、一部の計画は「特別実験室」とよばれたザモシチ等で実行に移された。ザモシチに民族ドイツ人10万人が移住する一方で、一部の住民は強制労働、そして一部の住民はアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所など絶滅収容所に送られた(de:Aktion Zamość)[11]。
参考文献
脚注
- ^ 谷、659-660、669p
- ^ 谷、669p
- ^ 谷、676p
- ^ a b 谷、678p
- ^ a b c 谷、680p
- ^ a b 谷、677p
- ^ HITLER'S PLANS FOR EASTERN EUROPE Selections from Janusz Gumkowkski and Kazimierz Leszczynski POLAND UNDER NAZI OCCUPATION Archived 2012年4月13日, at the Wayback Machine.
- ^ The Baltic States: Years of Dependence, 1940-80 page 48 Romuald J. Misiunas,Rein Taagepera,Georg von Rauch University of California Press 1983
- ^ a b c d 谷、681p
- ^ 土地の所有権は認められるが、参政権は持たない
- ^ 谷、681-682p
関連項目
- ゲルマン化
- 飢餓計画
- ナチズムと人種
- ヨーロッパ新秩序
- 大ゲルマン帝国
- 第二次世界大戦時のドイツによる強制労働
- 汎ゲルマン主義
- ホロコースト
- アインザッツグルッペン
東部総合計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 03:52 UTC 版)
ヒトラーは著書『我が闘争』においてソ連の征服とスラブ人の根絶を主張していた。ドイツが経済的に自立するためには東方のロシアを征服して新たな帝国を建設する必要があり、東方の征服に全力を注ぐには西の安全を確保する必要があると。ドイツの外交方針や軍事戦略は基本的にヒトラーの東方生存圏構想に基づいて策定された。バルバロッサ作戦はヒトラーの悲願である東方生存圏構想を実現する具体的な軍事作戦であり、同時期にソ連征服後に備えた東部総合計画が立案された。東方における主要な植民地計画の責任はドイツ民族性強化委員の親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーが負っていた。ヒムラーには自由裁量権が与えられ、あらゆる国家機関、民間研究機関の協力を得られた。独ソ開戦日の前日ヒムラーはベルリン大学教授コンラート・マイヤーに東部総合計画の策定を命じた。3週間後にマイヤーは計画書を提出し、1942年7月に改訂版を提出した。計画の目的はドイツ人の入植と先住民であるロシア人、スラブ人の絶滅だった。4500万人の西シベリアへの強制移住が計画され、そのうち3000万人は人種的に好ましくないと見なされた。四カ年計画庁と食糧次官ヘルベルト・バッケによって、包囲下に置いた地域から食糧を収奪することで数百万人のロシア人・スラブ人を餓死させるという計画が立案された(飢餓計画(en:Hunger Plan))。彼らは最終的に3千万人のロシア人が餓死すると見込み、総合計画による移住計画はロシア人の絶滅を前提としたものであった。レニングラードへの封鎖戦も同計画に基づき実行された。計画の改訂版では捕虜や住民を労働力として利用するため餓死者や追放者は削減された。当初ナチス政府は東方労働者(ソ連人)を帝国で労働させることは民族政策上危険であると判断し、ソ連人労働者の労働動員を拒否していた。しかし戦況が悪化すると方針は変更され、1941年10月にソ連人労働者は労働資源として動員されることが決まった。1944年8月時点で212万6753人のソ連人労働者が帝国で就業し、アルベルト・シュペーアの戦時経済も東部で獲得した膨大な強制労働者を前提としていた。計画への費用はソ連領での収奪や強制労働で賄われるものとされた。ナチスは東方のゲルマン化を推進し、占領したソビエト領への移住を呼びかけた。同時に占領地では人種の選別が実施され、独ソ開戦から九か月で特別行動部隊と多数の警察大隊が約100万人のユダヤ人、ジプシー、スラブ人を組織的に殺害した。またドイツ軍指導部や全陸軍部隊もナチスの絶滅政策に積極的に関与、もしくは黙認していたとされる。またウクライナや白ロシアのような農業主体国は帝国の主要な食料供給源と見なされ、徹底的な搾取の対象となった。ドイツ経済の戦略的利益とナチスの絶滅政策は深い因果関係にあり、占領地では大規模な餓死者が発生した。白ロシアではドイツ軍占領時代に170万人が死亡し、ソ連兵の捕虜200万人も強制収容所で餓死している。これらの餓死は自然発生的なものではなく、捕虜や住民の飢餓レベルを計画的に維持し食料供給率を上げるドイツ軍指導部の決定だった。陸軍国防経済局のトーマス大将は「ロシア人は何世紀もの間、飢餓、空腹、貧困に耐えてきた。ロシア人の胃袋は柔軟であり、したがって誤った同情は不要である。」と計画の背後にある根本的な理由を述べている。ゲルハルト・ヒルシュヘルトはナチスの占領政策と戦争目的は全征服地域の無制限かつ直接の支配を実行し、可能な限り全ての経済的人的資源を大規模に搾取することであったと要約している。
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