鋼鉄協約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 06:33 UTC 版)
ドイツ・イタリア間の友情と同盟に関する協約 | |
---|---|
![]()
総統官邸で行われた調印式の光景
|
|
通称・略称 | 鋼鉄協約 |
署名 | 1939年5月22日 |
署名場所 | ベルリン |
締約国 | ![]() ![]() |
言語 | ドイツ語、イタリア語 |
主な内容 | 独伊両国の枢軸連帯の強化 |
鋼鉄協約(こうてつきょうやく、ドイツ語: Stahlpakt、イタリア語: Patto d'Acciaio)は、イタリア王国とナチス・ドイツの合意協約。正式名称はドイツ・イタリア間の友情と同盟に関する協約(英:Pact of Friendship and Alliance between Germany and Italy)。1939年5月22日にイタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノとドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップによって調印、署名された。
概説
この協約は二つの部分からなる。一つはイタリア・ドイツ間の継続的な信頼と協力のあからさまな宣言であり、二つ目は「秘密補足議定書」で[1]、軍事と経済に関する政治分野での団結の推進であった。しかしながら、調印者であったガレアッツォ・チャーノを含めてイタリア政府の一部の要人はこの協約に反対していた。
イタリアのドゥーチェであるベニート・ムッソリーニは、当初この合意を「血の協約」と称していたが、これはイタリア人に一般的に受け入れられなかったため、「鋼鉄協約」とした。
条項
一般的に鋼鉄協約はドイツとイタリアのどちらかの国に戦争が布告された際には、軍事などに関して直接それぞれの国を援助し、軍事面や戦時生産で協力する義務を負っていた。協約は互いの国が合意無しに講和する権利を保障していた。
この合意は戦争が3年以内の起こるとの仮定を基礎にしていた。ドイツは1939年9月1日にポーランドに侵攻し、同年9月2日にムッソリーニがイタリアの中立を宣言、さらに同年9月3日にはイギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告、同年9月5日にはルーズベルト大統領がアメリカの中立を宣言する。 イタリアは戦争のための準備が不足しており、参戦義務を果たすことが難しかった。この結果、イタリアは1940年の6月の南仏侵攻未遂まで第二次世界大戦に参戦しなかった。
- 第1条:イタリアとドイツが「すべての共通の利益とヨーロッパ情勢を理解に至る」[1]ために互いに連絡するために滞在することが明記された。
- 第2条:イタリアとドイツに類似した外交政策の追求の義務を負わせており、例えばあらゆる「国際的事件」[1]の事柄に対して相互協議に入る両国の合意などがある
- 第3条:一方が戦争に突入した際の協約国の完全な軍事支援を約束している。
- 第4条:第3条の意図を補助しており、「軍事、戦争経済」[1] において大規模な協力の設立を促進する。第4条ではまたの経済的、軍事的協力を成し遂げるためにイタリアとドイツの間の緊密な連絡を支援した。
- 第5条:ドイツとイタリアがすべての未来の停戦に合意し、両国間の軍事計画での更なる支援の増加を強要した
- 第6条:イタリアとドイツ間の友好的な関係の維持の重要さが教え込まれている。
- 第7条:協約の効力についてで、協約は締結と同時に効力に入り1949年まで続くとされた。
秘密補足議定書

秘密補足議定書は、二つの項に分かれており、調印当時は公開されていなかった。
第一項では彼らが即急に軍事経済協力に加わることを促しており、第二項では両国が「出版、ニュース、プロパガンダに関して」[1]協力してファシズム枢軸の力とイメージを促進すると約束していた。これを助けるために、両国は外務大臣とともにそれぞれの国の「一人、または複数人の専門家」[1]を相手国の首都に割り当て、緊密な連絡関係を築いた。
解消
第7条によれば協約は10年で終了することになっていた。しかし枢軸国が北アフリカ戦線で敗退し、1943年7月にはシチリア島侵攻が始まり、イタリアは連合国と9月に休戦を結んでいる。イタリアにはピエトロ・バドリオ元帥の新しい政府が設立され、連合国に寝返ることとなった。一方ムッソリーニは北イタリアでイタリア社会共和国を設立し、イタリア社会共和国は名目上この協約の調印国として継戦した。
脚注
- ^ a b c d e f A translation of the text of the Pact of Steel attributed to Office of United States Chief of Counsel for Prosecution of Axis Criminality, Nazi Conspiracy and Aggression, 8 vols. and 2 suppl. vols. (Government Printing Office, Washington, 1946-1948), V, 453, Doc. No. 2818-PS. Translation hosted by Richard H. Immerman, Department of History, Temple University.
関連項目
外部リンク
- 協約日本語訳(ウィキソース)
鋼鉄協約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「鋼鉄協約」の解説
詳細は「鋼鉄協約」を参照 国際連盟脱退、スペイン内戦、防共協定、ミュンヘン会談とヨーロッパにおける独伊両国の急接近を示す出来事が続いたにも関わらず、公式に独伊同盟を結ぶというヒトラーの提案についてはムッソリーニは難色を示し続けた。これは利害の違いに加えて、他国を圧倒する工業国であるドイツと後進的な農業国であるイタリアとの軍事力差が遠因であった。政権の座についてから15年以上もの月日が経過して独裁体制が長期化する中、ムッソリーニはイタリアの経済と軍備が深刻に衰退している状況を憂慮するようになっていた。 イタリアは元来基本的に農業国であって経済規模の大きさに対して工業生産力が低く、工業化の重点化という意味では小国であるチェコスロバキアやハンガリーの方がより恵まれた状態にあった。工業力面の不足については、近代輸送の要である自動車の生産数が例に挙げられる。大戦前後のフランスもしくはイギリス本国の自動車生産数が約250万台であるのに対して、イタリアの自動車生産数は約37万台に過ぎず、英仏の15%程度に留まっていた。これはイタリア軍が英仏軍に比べ、部隊の機械化に大きく遅れを取らざるをえないことを意味した。戦争行為の維持に必要不可欠な戦略物資の欠乏も深刻な問題であり、イタリア半島及び大陸部は資源に極めて乏しく、かつイギリスのように有力な植民地を保有していなかった。戦争が本格化した1940年度のイタリア領における資源算出は石炭440万トン/鉄鉱石120万トン/石油1万トンで、年間鉄鋼生産は210万トンであった。対する主要参戦国の内、イギリスは石炭2億2,400万3,000トン/鉄鉱石1,700万7,000トン/石油1,100万9,000トンで年間鉄鋼生産は1,300万トン、ドイツは石炭3億6,400万8,000トン/鉄鉱石2,900万5,000トン/石油800万トンで年間鉄鋼生産は2,100万5,000トンにも上った。 上記の理由からイタリア王国軍の陸空軍は旧式化した兵器を更新できず兵員召集や訓練も不十分な状態に置かれ、燃料問題は虎の子の戦力である海軍の運用すら限定的なものにした。軍需調査担当大臣カルロ・ファグブロッサ(英語版)は軍需生産力が十分に確保できるのは1949年になるとする試算を纏めている。報告は後に修正されたが、それでも「1942年10月まで大規模戦争は不可能である」と結論している。1939年5月22日、ヒトラーからの要請に応じて独伊間で10年間の国家同盟(鋼鉄協約、血の盟約)が締結されたが、同時にムッソリーニは軍備面の協力関係については準備の必要性を説明し、1943年までの共同参戦義務の延期についてヒトラーの同意を得ている。イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世、イタロ・バルボ空軍大臣、ガレアッツォ・チャーノ外務大臣などから独伊同盟に反対する声が挙がったことや、鋼鉄協約より先に英伊中立条約が締結されていたこともあり、大戦初期のイタリアの局外中立宣言へと繋がった。 特にチャーノはヒトラーの過激な侵略思想に警戒感を抱いており、ポーランドへの領土欲で世界大戦を引き起こさないように直接要請しているが、むしろヒトラーはダルマチアを領有するユーゴスラビアへのイタリアによる侵攻をチャーノに提案する有様であった。
※この「鋼鉄協約」の解説は、「ベニート・ムッソリーニ」の解説の一部です。
「鋼鉄協約」を含む「ベニート・ムッソリーニ」の記事については、「ベニート・ムッソリーニ」の概要を参照ください。
- 鋼鉄協約のページへのリンク