飢餓計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:57 UTC 版)
「レニングラード包囲戦」の記事における「飢餓計画」の解説
レニングラードを包囲した北方軍集団は、まず住民の生活能力を断つため、ガス・水道・電力の供給施設、食料倉庫への砲爆撃を開始した。エストニアの飛行場から出撃したドイツ空軍が、最初の爆撃で6000発以上の焼夷弾を投下し、1000ポンドの高性能爆弾を48発投下した。給水施設と市内の全ての食料を備蓄していたバターエフ倉庫が、破壊された。バターエフ倉庫の喪失は、市内の食料事情を急激に悪化させた。9月8日、ドイツ軍参謀本部はミュンヘン栄養研究所のエルンスト・ツィーゲルマイヤー教授と会合し、市内の民間人を餓死させるにはどれだけの時間封鎖が必要なのか見積もりを求めた。レニングラードの人口、市内に備蓄された食料の量、冬の気温など、大量のデータがツィーゲルマイヤーに渡された。ツィーゲルマイヤーは封鎖を一か月続ければ、市内の食料事情は極度に悪化し、一日のパン配給量が250グラムに落ちると予測した。冬季に封鎖を継続すれば市内は飢餓状態に陥ると結論を出し、市民を市内に留めることが重要であると勧告した。ゲッベルスは自身の日記に、「レニングラードの降伏要求で悩むことはないだろう。それはほぼ科学的な方法で破壊することができる。」と記している。国防軍最高司令部は通常の占領を避け、市内の周囲にフェンスと電気ワイヤーを設置、住民の脱出を物理的に阻止し、脱出者には砲兵隊を使用することを決定した。9月中旬には覚書が完成した。「レニングラードを密閉せよ。しかる後にテロルと増大する飢餓によってそれを弱体化せよ。春に我々は市を占領し、生存者を排除してロシア内地に監禁し、レニングラードを高性能爆薬によって平らな地面にする。」レニングラード市民への飢餓作戦は科学的な手法で計画的に実施された。ヒトラーは新たな総統訓令を発令した。「総統はサンクトペテルブルクを地表から削りとることを決断した。ソビエト・ロシアの敗北後は、この都市が将来に存在するための理由は跡形もなくなる。この都市を隙間もなく封鎖し、あらゆる口径の砲火と絶え間のない空爆によって、これを跡形もなく破壊すべし。たとえこれによって降伏を要請する声が出てくるようになっても、これは拒否される。この戦争においてわれわれは、たとえ一部にせよ、この大都市の人口を維持することに関心を持っていない。」北方軍集団は大規模な包囲陣地を建設し、周囲に塹壕、監視所、射撃陣地、砲撃陣地を設置、防御拠点用のトーチカや掩蔽壕も複数建設された。包囲陣地の後方では、工兵が連絡道路と食料・物資の貯蔵地を建設し、長期的な包囲戦の準備が整えられた。レープはガッチナに司令部を置き、市内への砲撃を指揮した。ウリ―ツクとヴォロダルスキーの間の集落に、3個砲兵連隊を配置、毎日午前10時~午後7時にかけて、2時間毎に休憩を取りながら砲撃が実施された。9月末までに市内に5364発の砲弾が撃ち込まれた。脱出を図る民間人は即刻射殺が決まったが、北方軍集団司令部は民間人を近距離で射殺する兵士への心理的影響を懸念し、陣地の前方には地雷原を設置、必要な場合は砲兵隊で対処することを決定した。兵士が見ている状況下での民間人殺戮は出来るだけ避けなければならないとレープは語っている。多数の心理カウンセラーが陣地に常駐し、同時にナチイデオロギーの思想教育が強化され、劣等人種に対する同情は不要であると喧伝された。砲兵隊には兵士が近距離で民間人を射殺する事態を避けるため、市内を厳しく監視し、市内からでた早い段階で正確に処理することが求められた。これらの工夫にも関わらずドイツ軍兵士の動揺は避けられなかった。兵士の中には市内にパンを投げ込む兵士や、パンと引き換えに市内の女性に売春をせまる兵士もいた。砲兵隊の兵士も民間人を標的とする上級司令部の命令を皮肉っていた。
※この「飢餓計画」の解説は、「レニングラード包囲戦」の解説の一部です。
「飢餓計画」を含む「レニングラード包囲戦」の記事については、「レニングラード包囲戦」の概要を参照ください。
- 飢餓計画のページへのリンク