飢饉に対して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 07:28 UTC 版)
「パンチェン・ラマ10世」の記事における「飢饉に対して」の解説
また、中国全土で5000万人の餓死者を出したといわれる悪名高い大躍進政策はチベットでも行われており、チベット東部では集団農場(人民公社)が設立されていたが、餓死者は続出しており、改善するよう、パンチェン・ラマは周恩来首相に求めている。 チベットの多くの地域で、民衆が餓死している。地域によっては、民衆が全滅してしまった所もあり、死亡率は恐ろしく高い。過去においてはチベットは、暗く野蛮な封建社会であった。しかし、このような食料不足を経験したことは無かった。特に仏教が広まってからは、そうであった。チベット地区の民衆は、極端な貧しさの中に生きており、老いも若きも殆どが餓死寸前である。あるいは非常に衰弱し、病気に抵抗できなくて死んでいる また、公共食堂での食事を義務づけられた際、チベット民衆は1日当たり180グラムの、草や葉っぱや木の皮などが混じった小麦が配給されるのみで、パンチェン・ラマは次のように書いている。 この恐るべき配給は、命を支えるのに充分でなく、民衆は飢餓の恐ろしい苦痛に苛まれている。チベットの歴史において、こんなことは起きたことがない。民衆は夢の中でも、こんな恐ろしい飢餓を想像することはなかった。地域によっては、1人が風邪を引くとそれが数百人に伝染し、それによって多数の人が死んで行く チベットでは1959年から1961年までの2年間、牧畜と農業は殆ど完全に停止させられた。遊牧民は食べる穀物が無く、農民は食べる肉もバターも塩も無かった。いかなる食料も材料も、輸送することが禁じられた。それだけでなく民衆は出歩くことを禁止され、携帯用のツァンパ(麦焦がし)袋も没収され、多くの人々がそれに抵抗してあちこちで抗争が起こった カム地方では、1965年まで飢餓が続き、パンチェン・ラマが批判した惨状が継続していた。 1989年に中国社会科学院が行った調査では、飢饉で死亡した数は1500万人とされ、この他、人口統計学者のジュディス・バニスターは、3000万人と推計している。1980年代の北京経済制度研究所による報告書では、パンチェン・ラマの故郷である青海省では、人口の45%に当たる90万人が死亡し、四川省では900万人が死亡したという。飢饉について研究したジェスパー・ベッカーは、「中国のいかなる民族も、この飢饉によってチベット人程の苛酷な苦難に直面した人々はいない」と発言している。 この大躍進政策については、1959年、毛沢東は失敗を認めて国家主席を辞任し、1962年1月の中央工作会議(七千人大会)で劉少奇国家主席は「三分の天災、七分の人災」と述べて大躍進を批判し、毛沢東は生涯でただ一度の自己批判を行った。
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