飢饉の本格化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:22 UTC 版)
1933年1月から3月にかけて、さらに種子の徴発がすすめられた。そのため、集団農場はなにも栽培することができなくなった。そのため、ウクライナでは、耕作されない畑が増え、雑草だらけの畑も増えてきた。同年2月、カガノーヴィチは「雑草が生えているのは、農民が耕さないからだ」と農民を非難し、全ソ農業人民委員会のA.ヤーコヴレフは、ウクライナの農民たちは過去の怠慢の責任をとるべきだと演説で語った。同年2月19日にスターリンは、「働かない怠け者は飢え死にが当然である」と主張した。2月の第一回全ソ連コルホーズ突撃作業員(ウダールニク)大会においてスターリンは、飢饉に一言も触れず、「すべてのコルホーズ員を裕福に」というスローガンを掲げた。 1933年3月に飢饉は本格化した。体をむくませ、排尿も自制できなくなった人々が増えていった。ネズミ、スズメ、アリ、ミミズ、動物の骨のほか、靴底に使われている皮を切って麺のようにして食べた。タンポポ、ごぼう、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ、ボダイジュ、アカシア、ギシギシ、カタツムリの汁、マーモットを食べた。アワとソバの籾殻でケーキを作ったり、牛の骨を溶かして食べ、雑草で作ったビスケット、馬の飼料さえも人が食べた。鶏と家畜を食べたあとは犬と猫を食べ、どんぐりにぬか、じゃがいもの皮をまぜてパンを作った。村では、とうもろこしの茎や葉、樹皮、植物の根などのみを扱うバザールが開かれた。川で魚をとることは禁止されており、目撃されると逮捕され、有罪となった。メルニキでは蒸留酒製造所から出た家畜も食べないような生ゴミを食べる農民もいた。 1933年春にはウクライナで1日1万人の割合で人が死んでいったことがのちに分かっている。1933年春には、エンバクや、フダンソウといった飼料を「悪用」すると「10年は強制収容所へ送られる」と言われた。 1933年当時、レンガタイル工場などの工業分野では農民の雇用は禁止されていたが、鉄道工事、砂糖工場、国営農場での臨時雇用が時々あった。これに多数の農民が応募したが、働く力がなく、その多くが報酬である最初の食事をすませたあとで死亡した。 1933年4月、パンの配給がはじまったが、農民は法的に買うことができなかった。
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