飢饉後の新庄藩とは? わかりやすく解説

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飢饉後の新庄藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)

宝暦の飢饉」の記事における「飢饉後の新庄藩」の解説

新庄藩は、天明8年1788年)の「御巡検様御廻御案内之帳」や寛政8年1796年)に出され倹約令に、宝暦の飢饉によって領内人口減少したため、働き手がいなくなった田畑荒れて納められ年貢激減したことが記されている。藩では正徳2年1712年)に高直しをして総石高2万石ほど増やしこの際つくられ郷帳は「正徳郷帳」と呼ばれたが、宝暦の飢饉後はこの郷帳変更余儀なくされた。年貢収入は9俵から12俵ほどだったのが、4俵台にまで落ち込みその後10万俵まで達することはほとんどなかった。天明3年1783年)の年貢収納高は例年約半分5万俵で、この時は宝暦の飢饉同じく飯米計(ばかり)」の給付となった。 「東北一の山車祭り」とうたわれる新庄山車祭りは、宝暦大飢饉餓死者を供養し豊作祈願するために、翌宝暦6年藩主戸沢正諶始めさせた祭り伝えられている。 多く餓死者を埋めたとされる角沢街道脇には、餓死者を弔う丸仏が祀られている。これは天明の飢饉犠牲者併せて弔うために文化13年1816年)に建立されたもので、丸仏のそばに建つ碑には「餓死聖靈明和六年庚寅七月十六日 松本村有志」と刻まれている。下金沢町にある接引寺の山門脇に立つ「まかどの地蔵」は餓死者を供養するため建立されたものと伝えられ春秋彼岸寺参りする人々がこの地蔵ぼた餅食べさせる風習が今に残っている。 藩の中老北条六右衛門飢饉対策のために実施した囲籾の制」は、平年作の年に毎年1戸当たり籾7升ずつを拠出させて郷蔵蓄えさせるという制度で、平年はこの備籾は困窮者に低利貸し与えられた。この非常時のための備蓄制度は、幕末まで続けられた。

※この「飢饉後の新庄藩」の解説は、「宝暦の飢饉」の解説の一部です。
「飢饉後の新庄藩」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。

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