飢饉後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 21:45 UTC 版)
寛延4年(1751年)には八戸市内に「悪獣退散祈願碑」が建立された。 安藤昌益は飢饉の惨状を見て、医師としての限界を感じた。そして飢えた人々を救えない藩政や為政者に怒り、身分制社会を生み出す「法世界(ほうのよ)」を批判し、その思想的裏付けである儒学や仏教を激しく攻撃するようになった。昌益の思想が、儒学的な発想が見られた初期のものからこのような変化をしたのは、猪飢饉が発端であったと考えられているが、その一方で猪飢渇と安藤昌益の思想形成は重なり合わないという研究もある。 前述の西村嘉は、猪飢饉の延長上にある天明の大飢饉により、南部地方の農業は「壊滅的な大打撃」を被ることになったとしている。 「猪飢饉」と同程度の猪繁殖期は、明和元年や安永2年にもあったが猪または鹿が原因となって飢饉に至ったという記録は無い。これは、1月から2月にかけての冬期での猪狩り、捕獲への報奨制度、鉄砲の貸与、捕獲計画の実行などといった藩をあげての獣害対策が功を奏したのではないかと考えられている。
※この「飢饉後」の解説は、「猪飢饉」の解説の一部です。
「飢饉後」を含む「猪飢饉」の記事については、「猪飢饉」の概要を参照ください。
飢饉後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
宝暦5年から6年にかけて京都の白米の小売り相場が上昇しており、奥羽地方の凶作の影響が京都の方まで波及していたことが知られる。 庄内藩では宝暦13年(1763年)に再び大凶作になった際には、荒瀬郷の農民500人余が飯米の支給を要求して鶴岡城に押し寄せた。 米沢藩では、飢饉後、領内の人口は減少し、元禄5年(1692年)の13万3259人であったのが、宝暦11年(1761年)には10万人を割った。凶作時の宝暦3年から7年間の人口減は9699人で、なかでも宝暦7年には前年比3762人の減少となった。上杉鷹山はこれを受けて藩政改革を始め、備籾蔵の設置などを行なった。天明の大飢饉の時にはこの備籾を放出し、越後や酒田で米を購入したほか、尾張藩からは米3000俵を借りて救米を施したため、人口減少は宝暦の飢饉時の約半数で食い止められた。 仙台藩では、藩領各地で村借による救恤や富農層からの出資による救済が行われた。この時に出資した富農たちの中には藩から知行地や身分、諸営業特権を与えられる者がおり、これが藩政後期の農村構造を変化させる原因となった。また、仙台藩は財務政策として、藩内の余った米を買い上げて江戸や大都市に売却する買米仕法を行なってきたが、宝暦の危機によって買米のための資金を準備できなくなり宝暦7年には中止に追い込まれた。これが仙台藩を財政難に陥らせる原因となった。飢饉以降、領内の田畑は荒廃し、財政難により収奪強化がなされたため、それに抵抗する農民たちとの不穏な情勢が続くようになった。また、幕府からの普請役賦課や飢饉による財政難により、藩では藩士たちの供人数削減を含む倹約令を厳命した。供人数を減らすことを嫌った藩士の中にはそれに従わない者もいたが、こうした倹約令は幕末まで出され続けた。 盛岡藩では飢饉後の宝暦7年(1757年)4月8日には藩内の米内村で薬師の祭りが行われ、飢饉をしのいだ民衆は「遊興乱舞」した。しかし、その前年(宝暦6年)からまだ若い16歳から17歳くらいの人妻や娘たちが何人も手に手に大きな饅頭を持って売春行為をした。それを謡ったいかがわしい小唄が流行り、大人だけでなく子供まで口にするようになった。饅頭会と呼ばれたこれらの行為は、年を経るにつれて盛んになったので、役人に祭礼や物見遊山などを厳重に取り締らせたが、宝暦7年(1757年)には人々はまるで狂ったように物見遊山に出掛けた。 弘前藩では、飢饉の際に困窮した寺社は本来の役務である祈禱をおろそかにして、禁止されている農業への従事や宮社の譲渡などを行い、また既存の組織に属さない宗教活動が村落で見られるようになった。藩の改革を進める乳井貢は、領内寺社の支配系統を再掌握し、支配統制を強化した。乳井の改革は、商業や通貨を統制して借財を整理し、綱紀粛正・倹約奨励で藩内の引き締めを図ろうとしたものだったが、飢饉によって米切手政策や標符発行が失敗し、経済を混乱させたことで乳井は失脚した。
※この「飢饉後」の解説は、「宝暦の飢饉」の解説の一部です。
「飢饉後」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。
- 飢饉後のページへのリンク