伊賀七と地図
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 15:59 UTC 版)
伊賀七は地理学にも通じ、「分間谷田部絵図」を残している。この絵図は伊賀七の遺品の中で最古の品であり、畳2畳分の大きさがあり、現代の地図にも劣らないほどの高精度を持っている。縮尺は1:6000。図中には、谷田部陣屋口南方右側に鉄砲場が描かれ、谷田部城下には内町、新町、ふどう町(不動町)、西町などの地名が記されている。作図は天明8年正月(グレゴリオ暦:1788年2月)で、天明の大飢饉後に谷田部藩からの依頼によって作図したものと思われる。損傷が激しかったが、1970年代に谷田部町教育委員会が修復作業を行なった。 「分間谷田部絵図」以外にも同絵図をもとに、大縮尺の図とした「谷田部付近地図」、飯塚家の所有地を描いたと思われる文化3年(1806年)作の「分間中野畠絵図」・「分間山絵図」、既存の絵図を拡大したと考えられる「分間下総絵図」の合計5枚の絵図が伝わっている。 絵図の作成には自作の測量器具を用いた。その測量器具は「十間鑰」(十間輪)と呼ばれ、全長176cmの大小の車輪が付いた車になっており、車を転がして距離を測定した。大きい車輪は3尺(約90.9cm)で1回転し、10間(約18.2m、20回転)ごとに鐘が鳴る仕組みであった。十間鑰を使えば、歩く速さで簡単に距離を測れたため、島名村(現在のつくば市島名)から谷田部陣屋までどれほどの距離があるか思案していた人々の前で、伊賀七は速やかに計測して驚かせたという。十間鑰は五角堂内に眠っており、小さい方の車輪には使用法が書かれていた。
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