伊賀上野市長時代
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1947年(昭和22年)に全国で最初の日本社会党の公認候補者として三重県上野市長に当選し、以後2期、革新的な市政を行った。上野市長としては伊賀地方の観光産業の育成と伊賀上野の魅力をアピールする事を目的に伊賀上野世界こども博覧会を開催する。1952年(昭和27年)3月15日から5月15日の期間に開催されて、博覧会の会場は伊賀上野白鳳公園で、主催者は伊賀上野市であった。後援者は三重県・滋賀県・京都府・奈良県の各近隣府県で、三重県教育委員会・滋賀県教育委員会・京都府教育委員会・奈良県教育委員会の各府県の教育委員会であった。協賛者は日本国有鉄道・近畿日本鉄道株式会社・日本交通公社・三重交通株式会社。開催の前の年である1951年(昭和26年)8月、伊賀上野市議会で博覧会の開催を提案する演説で「博覧会の赤字経営による損失の覚悟は約500万円ぐらいである」と市議会で議員に説明をした。
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