伊賀仁木氏について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 17:18 UTC 版)
正長2年(1429年)に伊賀守護某が戦死しているが、これは仁木氏だと推測されている。その跡は某の子と推測される仁木中務少輔(国行?)が継いだが、永享5年(1433年)に国内不穏(「国行事毎事無正躰」)を理由に更迭され、代わって山名時熙が守護に補任された。しかし、時熙は病身であったため、間も無く山名持豊(宗全)が守護職を任された。そして、持豊は永享12年(1440年)に山城守護職・侍所頭人就任を契機に伊賀守護を辞退したと推測されている。以降は少なくとも天正8年(1580年)まで、伊賀仁木氏が在国して守護職を世襲したという。ただし、仁木氏の統治は伊賀一国に及ぶものではなく、長禄4年(1460年)の畠山義就攻略要請につき、「伊賀守護・同国人」などと記されるように、仁木氏とは別に動くと認識されている国人の勢力が確認されている。これは南二郡(名張・伊賀)の者達であるという。その一方で、文明3年(1471年)に仁木政長が伊賀国人の服部遠江守父子による近衛家領近江国甲賀郡信楽庄への押妨を、近衛家の依頼を受けて押さえているように、国人への影響力を失ったわけではなかった。
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