伊賀同心との確執とは? わかりやすく解説

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伊賀同心との確執

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 09:57 UTC 版)

服部正就」の記事における「伊賀同心との確執」の解説

服部家には多く伊賀者が関わっていたことが推察されるが、その中の一つ伊賀同心二百人組」と呼ばれる組織服部家家来ではなかった。彼らの多く伊賀越えにおいて家康一行御斎峠まで送り届けた伊賀地侍とその家族であり、後年家康徳川家仕官望んだ彼らを徒歩同心身分召し抱える事とした。その際家康は「先祖伊賀郷士である」という理由指揮権服部正成預けたのだが、彼らは「自分たちは徳川家雇われたのであり服部氏家来ではない事、正成の先祖伊賀出て三河住んだ事、伊賀における正成の家格自分たちよりも下である事」を理由口惜し思っており、徳川家からの命令仕方なく従ったとされる。この確執は、正成の死後指揮権引き継いだ正就の代も続いたとみられる慶長9年1604年)、江戸麹町服部屋敷江戸城火事類焼により焼失した。この屋敷再建の際、普請の手伝い申しつけられた伊賀同心一部が「正就の屋敷普請自分たちが行うのは道理合わない」と目安訴えたため、正就は幕府から詮議を受けることになった伊賀同心らとしては、自分たちは幕府召し抱えられたのであり服部氏家来ではない、服部氏から屋敷再建の手伝いの命を出されたり、手伝わぬことに服部氏から咎を受けたり知行について指図されるのは筋が通らない、という考えであった。しかし、幕府による詮議結果石見守(正就)に理分がある」とされ、伊賀同心達は残らず取り調べられ目安投じ徒党企てた張本人の7人が処罰受けた。 この伊賀同心達の取り調べの間に、正就の身内病人出た。正就は将軍秀忠とのお目見え控えていたが、密かに見舞いに出かけ、夜更けになり帰宅の途についたその折何者が行きがかりに正就の家来突き倒し雑言吐き刀を抜いて向かってきたため、正就はやむを得ず相手斬り殺したその際相手伊奈忠次配下足軽であったことが判明した翌日城中上がった正就は前夜事件老中報告したが、「狼藉者成敗したのはもっともな事であり、先日伊賀同心訴えについても正就に理がある。とはいえお目見え前に関わらず私用夜間外出したことは落ち度である」と沙汰され12月2日改易申しつけられた。 なお、改易時期については慶長9年ではなく慶長10年1605年)」としたものや「慶長10年1605年2月服部石見江戸鉄砲奉行として将軍上洛供奉し、同年12月改易」とした史料もあるが、正就の子孫である大服部家・小服部家家譜始めとする「慶長9年改易」と記した史料には上洛供奉記述はなく、一部史料中においてもその点が指摘されている。 「服部石見」の名は服部家家督継承し服部半蔵務める者が代々名乗ることから、慶長10年の上洛に供奉したのは正就の弟である服部正重可能性もあり、今後の研究待たれる

※この「伊賀同心との確執」の解説は、「服部正就」の解説の一部です。
「伊賀同心との確執」を含む「服部正就」の記事については、「服部正就」の概要を参照ください。

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