伊賀同心との確執
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服部家には多くの伊賀者が関わっていたことが推察されるが、その中の一つ「伊賀同心二百人組」と呼ばれる組織は服部家の家来ではなかった。彼らの多くは伊賀越えにおいて家康一行を御斎峠まで送り届けた伊賀の地侍とその家族であり、後年、家康は徳川家に仕官を望んだ彼らを徒歩同心の身分で召し抱える事とした。その際家康は「先祖が伊賀の郷士である」という理由で指揮権を服部正成に預けたのだが、彼らは「自分たちは徳川家に雇われたのであり服部氏の家来ではない事、正成の先祖が伊賀を出て三河に住んだ事、伊賀における正成の家格は自分たちよりも下である事」を理由に口惜しく思っており、徳川家からの命令で仕方なく従ったとされる。この確執は、正成の死後、指揮権を引き継いだ正就の代も続いたとみられる。 慶長9年(1604年)、江戸麹町の服部屋敷が江戸城火事の類焼により焼失した。この屋敷の再建の際、普請の手伝いを申しつけられた伊賀同心の一部が「正就の屋敷の普請を自分たちが行うのは道理に合わない」と目安で訴えたため、正就は幕府から詮議を受けることになった。伊賀同心らとしては、自分たちは幕府に召し抱えられたのであり服部氏の家来ではない、服部氏から屋敷再建の手伝いの命を出されたり、手伝わぬことに服部氏から咎を受けたり、知行について指図されるのは筋が通らない、という考えであった。しかし、幕府による詮議の結果「石見守(正就)に理分がある」とされ、伊賀同心達は残らず取り調べられ、目安を投じ徒党を企てた張本人の7人が処罰を受けた。 この伊賀同心達の取り調べの間に、正就の身内に病人が出た。正就は将軍秀忠とのお目見えを控えていたが、密かに見舞いに出かけ、夜更けになり帰宅の途についた。その折、何者かが行きがかりに正就の家来を突き倒し、雑言を吐き刀を抜いて向かってきたため、正就はやむを得ず相手を斬り殺した。その際、相手は伊奈忠次配下の足軽であったことが判明した。翌日、城中に上がった正就は前夜の事件を老中に報告したが、「狼藉者を成敗したのはもっともな事であり、先日の伊賀同心の訴えについても正就に理がある。とはいえ、お目見えの前に関わらず私用で夜間に外出したことは落ち度である」と沙汰され、12月2日に改易を申しつけられた。 なお、改易の時期については慶長9年ではなく「慶長10年(1605年)」としたものや「慶長10年(1605年)2月に服部石見が江戸衆鉄砲奉行として将軍上洛に供奉し、同年12月に改易」とした史料もあるが、正就の子孫である大服部家・小服部家の家譜を始めとする「慶長9年改易」と記した史料には上洛供奉の記述はなく、一部の史料中においてもその点が指摘されている。 「服部石見」の名は服部家の家督を継承し服部半蔵を務める者が代々名乗ることから、慶長10年の上洛に供奉したのは正就の弟である服部正重の可能性もあり、今後の研究が待たれる。
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