戸沢正諶
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時代 | 江戸時代中期 |
生誕 | 享保7年7月11日(1722年8月22日)[1] または享保5年(1720年) |
死没 | 明和2年9月20日(1765年11月3日) |
別名 | 猪野七郎 |
戒名 | 智徳院仁山宗勇 |
墓所 | 東京都港区三田の常林寺瑞雲院 |
官位 | 従五位下、上総介 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出羽国新庄藩主 |
氏族 | 戸沢氏 |
父母 | 父:戸沢正庸、母:円成院 養父:戸沢正勝 |
兄弟 | お虎、正賀、正勝、正諶、庸祝、正備、正愛、はん、せの |
妻 | 正室:柳沢吉里の娘 |
子 | 正産、正良、男、娘、娘(松平乗友正室、のち戸田忠喬正室) |
生涯
享保7年(1722年)7月11日(『寛政重修諸家譜』では享保5年(1720年))、第3代藩主・正庸の四男として新庄で生まれる。元文2年(1737年)、父の隠居により兄の正勝が家督を継ぐと、兄から7000石を与えられ、寄合衆に列せられた。延享2年(1745年)8月13日、兄の養子となり、同年の兄の死去により家督を継いだ。10月18日に従五位下、上総介に叙任された。
宝暦5年(1755年)、積雪の被害で藩の被害が大きかったため(宝暦の飢饉)、幕府から3000石を借用して再建費用に当てたが、そのために幕府から藩政が良くないとして、処罰としてしばらく出仕を止められた。明和2年(1765年)9月20日に死去した。享年44(または46)。跡を長男の正産が継いだ。
系譜
父母
正室
- 柳沢吉里の娘
側室
- 心涼院
子女
関連項目
脚注
- ^ 『三百藩藩主人名事典 第1巻』新人物往来社、1986年、p.197。
固有名詞の分類
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