新庄藩の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
泉田村は例年の年貢高は237俵だが宝暦5年は収穫皆無に近いという理由で69俵で良いことになった。しかし、どうしても40俵は納めることができなかったため、各農家から1升、2升と掻き集め、郷蔵で俵に詰めようとしたが、窮民が群がってきて枡取が米を計量するはしから手を差し出して米を奪い合った。役人がいくら叱ろうとも脅そうとも、窮民たちを止めることができなかったと泉田村の庄屋は記している。藩の年貢収納高は、例年では10万俵前後だったが、この年は4万1150俵で、平年の半分未満であった。 宝暦5年10月30日、家臣一同が総登城を命じられ、集まった席上で藩主戸沢正諶の密書が披露された。その内容は、今年は未曾有の凶作で納められた年貢米が少ないため藩士には飯米のみを支給する、我慢して仕えてくれればそれが何よりの忠勤であるが、耐え得ない者はいつでも戸沢家を離れてもかまわないというものだった。こうして行われた「飯米渡しの制」は、禄高の高下にかかわらず、家族を含め1人1日5合の飯米を給付するというものだった。 藩内では酒の売買が禁止され、宝暦6年3月には正諶は幕府に3000石の拝借米を願い出た。これは許可されたものの、施政の責任を問われ正諶は差し控えを命じられた。
※この「新庄藩の対応」の解説は、「宝暦の飢饉」の解説の一部です。
「新庄藩の対応」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。
- 新庄藩の対応のページへのリンク