戸沢氏とは? わかりやすく解説

戸沢氏

(戸沢家 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 05:04 UTC 版)

戸沢氏
丸に輪貫九曜[1]
本姓 桓武平氏忠正流
家祖 戸沢衡盛
種別 武家
華族(子爵)
出身地 出羽国
陸奥国
主な根拠地 陸奥国滴石
出羽国角館
東京府
著名な人物 戸沢盛安
支流、分家 楢岡氏(武家)
寺内家(武家伯爵)
凡例 / Category:日本の氏族

戸沢氏(とざわし)は、武家華族だった日本氏族陸奥国、後に出羽国を支配した国人戦国大名であり、江戸時代には出羽国新庄藩主を世襲し、明治維新後華族の子爵家に列する[2]

家伝

戸沢氏は平忠正の子、平維盛[3]より始まり大和国三輪を本拠地とした。その子、平衡盛の代に木曾義仲に属していたが、その不義を憎み奥州磐手郡滴石庄(岩手県雫石町)に下向した。1185年源頼朝に臣従し、屋島の戦い奥州合戦での活躍が認められ、磐手郡滴石庄内に4千6百町歩の土地を与えられ大身の御家人となる。その時に滴石庄の戸沢邑に居を構えたことから「戸沢氏」と称した。1206年、戸沢兼盛は南部氏から攻められ、滴石(岩手県雫石町)から門屋小館(秋田県仙北市西木町西明寺)に移る。1220年に門屋小館から門屋へ移り、1228年門屋城を築城。以上が、『藩翰譜』などが伝える戸沢氏の出自である。

平衡盛考

家祖とされる平衡盛の「衡」という漢字から、奥州藤原氏の郎党だったと言う説もある。衡という漢字は奥州藤原氏が通字として使用しており、歴代当主以外の人物も使っていた[4]。衡盛の「衡」は、藤原氏からの偏諱を受けて付けていたものと推察される。また、本拠地とされる滴石も藤原清衡の母方の安倍氏の本貫地の厨川に極めて近いことから、奥州藤原氏の中でもそれなりの地位にあったものと考えられる。以上を踏まえた上で、滴石に古くから土着していた荘園の開発領主と言うのが、その実態であり、奥州征伐の時に藤原氏に協力しなかったことから辛うじて家名存続を許されたが、新しくきた関東御家人の圧迫を受けて、出羽国に移っていったという説が奥州藤原氏郎党説である。

中世

鎌倉時代

鎌倉時代初期には仙北郡門屋地方に進出し、そこから周囲に勢力を拡大して行ったものと推察される。初めに小館を建て、そこから周囲の寺社や豪族を傘下に治めていった。本拠地である滴石庄も引続き支配下にあったが、中期の頃になると南部氏の圧迫を受けて、最終的には南部氏の与騎にならなければ存続が難しかったという。記録上は、戸沢氏が桓武平氏を名乗るのもこの頃である。

南北朝時代

鎌倉幕府が滅び、建武の新政が始まると公家の北畠顕家陸奥守として下向してきた。しかし足利尊氏の離反と石津の戦いでの顕家の戦死で、奥羽の国人は動揺し、それぞれ南朝北朝別れ抗争する。

戸沢氏は南朝に属す。顕家の弟北畠顕信が一時期滴石城に入っていたと記録があり、また別の記録では「興国二年(1341年)顕信は、武家方の奥州総大将石塔義房を攻撃するために、葛西和賀・滴石・河村・南部の兵を動員した」とある。ここにある「滴石城」「滴石」とは戸沢氏を指しており、戸沢玄盛と推察される。

興国二年の合戦は顕家の敗戦に終わり、顕家は滴石城に入城した後、出羽国へ去っていった。この時に滴石の兵も従ったとある。

南部氏側資料に拠れば「南部晴政の代に滴石に進出し、敵方を出羽に追いやった」と記録が残っており、戸沢家譜に拠れば応永30年(1423年)、戸沢家盛の代に本拠地を角館に移したとある。何時本拠地を仙北郡門屋地方に移したかは定かではない。また、別資料に拠れば「角館戸沢氏」「滴石戸沢氏」と仙北地方、滴石にそれぞれ戸沢氏がいたことが推察されている。

興国二年の合戦以後、南部氏が北朝方に寝返ったことと、北陸奥における足利氏勢力が増大したことが契機となり、この時に仙北地方に移ったと推測される。但し、滴石庄を失ったようではなく、そこには庶流を置いていったと考えられる。

その後、戸沢氏は門屋城を根拠地とし、南朝方の武将として各地を転戦したようであるが、戸沢英盛代の延文元年(1356年)には鎌倉へ出仕しており、この頃には他の武将達同様に北朝方に転向して時代を生き抜いたようである。

室町時代

仙北郡門屋地方に本拠を置いた戸沢氏は、門屋城を根拠地として周囲にいくつもの出城を構築してネットワークを形成し、門屋地方の領国基盤を強化して行った。その後、本拠地を門屋から角館に移し、門屋地方からさらに、仙北三郡の内、北浦郡全域への支配拡大を目指して行った。

中世前期の戸沢氏の動向については、『戸沢家譜』など以外には確証がないが、長享3年 神宮寺八幡宮(現大仙市神宮寺)を再興して棟札に名を書きとどめた「平朝臣飛騨守家盛」は戸沢氏の当主であったものと思われ、これが初見史料となる。

角館移転

角館に本拠を移転した時期については諸説ある。

応永年間の説は戸沢家譜に「応永三十一年に戸沢家盛が角館に柵を築く」とあり、付近の神宮寺八幡宮に「平朝臣飛騨守家盛」の記録があることが根拠であるが、応永年間の仙北郡は南部氏、小野寺氏が争っている最中であり、そこに戸沢氏が割って争っていたとは考え難い。

天文年間の説は南部氏文書の「南部晴政の代に滴石に進出し、敵方を出羽に追いやった」という記録が根拠だが、そこから豊臣秀吉小田原征伐まで、わずが40年の猶予しかなく、その間に仙北郡全域を掌握できたとは考えられない。

『戸沢氏系図』によると「正員の子政保が角館に柵を移す」とあり、家譜と比較すると文明11年(1479年)に家督を継いだ戸沢秀盛の頃である。また、神宮寺八幡宮の「平朝臣飛騨守家盛」の記録も、長享3年(1489年)と秀盛の治世の頃である。以上の事から戸沢氏の角館移転は文明年間と考えられる。

戦国時代

勃興期

応仁2年(1468年)、南部氏が小野寺氏との抗争に敗れ、仙北三郡から撤退する。戸沢氏は北浦郡の統一に成功し、仙北三郡の覇権を巡り小野寺氏さらには安東氏との抗争を開始する。

明応5年(1496年)に大曲地方への進出をかけて、安東忠季と戦う。秀盛は弟の戸沢忠盛に二千の兵を与え、淀川城の守備に就かせる。両軍は唐松野で激突したが引分けに終わる。永正年間には小野寺氏と戦う。両者一歩も退かぬ長期戦となり、最後は楢岡氏の仲介で和睦。

大永7年(1527年)には、再び安東氏と激突。この合戦は安東氏の謀略により、家中分解の危機に陥ったが、何とか引き分けに持ち込む。この合戦で戸沢氏家臣の結束は強まり、戦国大名化に成功する。

享禄2年(1529年)、秀盛死去。後を戸沢道盛が継ぐ。僅か5歳であった。

動揺期

秀盛の後を道盛が継いだが、僅か5歳だったこともあり、叔父の忠盛が角館に入城し後見人を務めた。しかし忠盛が宗家奪取を企て、道盛と生母(楢岡氏出身)は城外に追放された。この一方的な謀反は家臣団や周辺諸侯の支持を得られず、楢岡氏を中心に六郷氏本堂氏・白岩氏らが結束して忠盛に圧力をかけ、道盛の角館復帰、忠盛の淀川城退去で決着した。

天文10年(1541年)、小野寺氏が北浦郡攻略を開始した。

天文9年(1540年)に本宗地滴石を失陥し、更に天文14年(1545年)には淀川城を安東氏によって奪われており、戸沢氏最大の危機的状況であった。家臣団も降伏やむなしの雰囲気だったとされる。しかし、道盛母の奮起とそれに応えた家臣団の必死の抵抗により、小野寺氏はそれ以上の攻略を諦めた。

天文16年(1547年)、淀川城を奪還し、荒川城をも攻略し、大曲土屋の富樫氏を臣従させることにも成功した。元亀元年(1570年)には、富樫勝家に高畑に築城させ、小野寺氏への逆襲を開始した。

こうして戸沢氏の勢力は北浦郡全域と仙北中郡、旧仙北郡の大部分を平定した。その後道盛は本堂氏の女と結婚した。

安土桃山時代

道盛の子戸沢盛安は、小野寺氏や秋田氏などと戦って勢力を拡大し、勇将として「鬼九郎」の異名をとった[5]。天正18年(1590年)には豊臣秀吉小田原征伐に従軍したが、陣中で病没[5]

その後を受けて家督した弟の戸沢光盛は、豊臣秀吉から本領の北浦郡4万4000石を安堵された[5]。しかし文禄元年(1592年)に朝鮮出兵の途上、播磨国姫路城で病死した[5]。光盛の死後、盛安の子の戸沢政盛が家督[5]

江戸時代

秀吉の死後、政盛は徳川家重臣の鳥居元忠の娘と縁戚を結び、徳川方へ急速に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍に属し、最上氏と共に西軍の上杉氏と戦った[5]。しかし消極的だったと咎められて、常陸国松岡4万石へ減転封された[5]。松岡藩転封後も政盛は、正室真室御前の兄弟鳥居忠政の次男又三郎定盛を婿養子に迎えるなど(ただし相続前に死去)、鳥居氏との関係強化を進めた[6]

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では小田原城の守備を、翌20年の大坂夏の陣では鳥居忠政とともに江戸城の留守居役を命じられたため、本戦には参加していない[6]

元和8年(1622年)に山形藩最上家が改易となると、その領地には、鳥居忠政(山形藩22万石)、酒井忠勝(庄内藩14万石)、松平重忠(上山藩4万石)、酒井直次(左沢藩1万石)などとともに、戸沢政盛が2万石加増のうえ出羽国新庄に移封された[6]。さらに寛永2年(1625年)には出羽国最上郡・村山郡2郡において新田8200石を加えて6万8200石に高直しされた[7]。以降この表高で出羽国新庄藩主家として廃藩置県まで続いた[8]

最後の新庄藩主正実は、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で当初奥羽越列藩同盟側につくも、同年7月に久保田藩主佐竹家が同盟脱退と奥羽鎮撫総督府軍への参加を決定すると、戸沢家もそれに続いて総督府軍に転じた。緒戦では賊軍の領内侵攻を受けて新庄城が落城するなど苦戦を強いられたが、その後各地を転戦し、糠塚山や苅和野などの戦闘で賊軍に対して勝利をあげ、居城を回復した[9]

明治以降

戦後、正実はその勇戦を称えられ、明治2年(1869年)6月19日賞典禄1万5000石を下賜された[10][9][11]。同日に版籍奉還に伴って新庄藩知事に転じるとともに華族に列し、明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県に伴って罷免されるまで藩知事に在職した[10]

版籍奉還の際に定められた家禄は現米で2607石[12][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄(2607石)と賞典禄(実額3750石)の合計6357石と引き換えに支給された金禄公債の額は、7万380円55銭7厘(華族受給者中95位)[14]

明治前期の忠敬の住居は東京府麻布区森元町にあった。当時の家扶は、中村英慶[15]

明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で華族が五爵制になると、同月8日に旧小藩知事[注釈 2]として正実は子爵に列せられた[2]

明治29年に正実が死去し、維新の功により従二位が追贈された[17]

その孫の正己貴族院の子爵議員に当選して務めた[18][17]。彼の代の昭和前期に戸沢子爵家の住居は東京市小石川区丸山町にあった[18]

系譜

桓武天皇
 
 
 
葛原親王
 
 
 
高見王
 
 
 
高望王
 
 
 
平 国香
 
 
 
貞盛
 
 
 
維衡
 
 
 
正度
 
 
 
正衡
 
 
 
正盛
 
 
 
忠正
 
 
 
通正
 
 
 
1戸沢 衡盛滴石
 
 
 
2兼盛飛騨守
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3親盛飛騨守盛正住小館兼任住小館
 
 
 
4克盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5勝盛飛騨守久盛
 
 
 
6玄盛飛騨守
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7英盛飛騨守長盛住小館
 
 
 
8氏盛飛騨守
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
9伊盛上総介行盛横田城
 
 
 
 
 
10豊盛治部少輔泰盛飛騨守
 
 
 
11家盛角館城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
12久盛飛騨守盛芳住大曲城
 
 
 
13寿盛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
14征盛飛騨守楢岡 長峰頼盛住門屋城
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
15秀盛忠盛政重安房守宗盛宮内大輔盛定周防守盛実左京亮盛直
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16道盛盛門盛行
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17盛重深盛18盛安19光盛盛吉左兵衛尉
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
盛綱盛常20政盛
新庄藩主家
盛忠
 
 
 
鳥居 忠政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
戸沢 定盛
 
 
 
乗盛能登守21正誠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正武22正庸[※ 1]
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正成[※ 2]正賀23正勝24正諶庸祝正備正愛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25正産26正良27正親
 
 
 
 
28正胤
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
正賜29正令正啓正紀正彬楢岡 信之助
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30正実本多 忠貫中条 信汎戸田 直一正時
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31正定富寿
 
 
 
 
32正己西脇 健治
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
33正修
 
34奎三郎
 
 
 
 
 
 
友子
 
35
 
 
注釈
  1. ^ 楢岡友清の子。
  2. ^ 鳥居成勝の子。
参考

配下武将

  • 戸蒔義広

戸沢家臣団

脚注

注釈

  1. ^ 明治2年6月17日の版籍奉還時、藩財政と藩知事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の十分の一をもって藩知事個人の家禄と定められた[13]
  2. ^ 旧新庄藩は現米2万6070石(表高6万8200石)で現米5万石未満の旧小藩に該当[16]

出典

  1. ^ 他にも家紋があり、武家家伝 戸田氏に載っている。
  2. ^ a b 小田部雄次 2006, p. 333.
  3. ^ 日本の苗字七千傑 【桓武平氏忠正流】
  4. ^ 例として、初代当主・藤原清衡の三男・藤原正衡、2代当主・藤原基衡の子または甥との説がある樋爪俊衡やその弟(もしくは従兄弟(義弟))の樋爪季衡や2人のそれぞれの息子達(俊衡の息子は師衡、兼衡、忠衡の3人、季衡の息子は経衡)、3代当主・藤原秀衡の息子達で4代当主・藤原泰衡の5人の兄弟(藤原国衡藤原忠衡藤原高衡藤原通衡藤原頼衡)がいる。
  5. ^ a b c d e f g 工藤寛正 2008, p. 623.
  6. ^ a b c 工藤寛正 2008, p. 624.
  7. ^ 新田完三 1984, p. 418.
  8. ^ 新田完三 1984, p. 418-420.
  9. ^ a b 工藤寛正 2008, p. 626.
  10. ^ a b 新田完三 1984, p. 420.
  11. ^ 藩名・旧国名がわかる事典『新庄藩』 - コトバンク
  12. ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 19.
  13. ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
  14. ^ 石川健次郎 1972, p. 42.
  15. ^ 石井孝太郎『国立国会図書館デジタルコレクション 明治華族名鑑』深沢堅二、1881年(明治14年)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994441/37 国立国会図書館デジタルコレクション 
  16. ^ 浅見雅男 1994, p. 338.
  17. ^ a b 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 178.
  18. ^ a b 華族大鑑刊行会 1990, p. 248.

参考文献

関連項目





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